【番外編】鬼の霍乱
「たまちゃ~ん! 帰り可南君のところ寄る? 行くなら私もぉ❀ 久しぶりだもんね、可南君の風邪」
オフィスの片隅で、残業の区切りがついた桜が伸びをしながら珠希に声をかけた。
「4~5年ぶりとかじゃない? 昼PC取りに行った時は全然起きなかったけど、一応水分と簡単な食べ物は置いたし大丈夫だと思うのよね。急ぎの連絡もないし……まぁ気になるといえば気になるけど」
「寄るには遠回りだもんねぇ」
デスクの資料を整理していた篤史が、特に焦る様子もなく落ち着いた声で二人の会話に加わる。
「そんな大騒ぎしなくても大丈夫だと思いますよ。明日も休むようならその時考えれば」
「可南君あぁ見えても三十路だよ? たまちゃん心配症なんだからぁ」
「別に心配とかじゃなくて私はちゃんと健康管理の指導をね」
「はいはい♪」
その時ちょうど、篤史に指示の確認をしに来ていた龍が静かに口を開いた。
「木村さん、時間いつでも良いなら俺帰り寄りますよ。途中で降りるだけですし」
「いいの? じゃあ生存確認だけでいいから、ついでに水分取って何か食べるように言って、あとLINE見るようにと汗かいたら着替えるようにって、それから──」
その場の全員が(心配性だな)と、呆れ顔で木村珠希を見つめる。
加えて、遣いを頼まれた龍だけはどんどん増えていく伝言の量に(「ついで」とは…?)と、心の中で突っ込みを入れていた。
そんな中、篤史は何かに気づいたように龍を見つめる。
(そうだ、龍さんが行くってことは……じゃあ大体の到着時間を計算して、と)
眼鏡の奥で紫の瞳が細められる。彼の口角はほんの少しだけ上がっていた。
◆◇◆◇
龍は静まり返った部屋のドアを二度ノックすると、応答のない室内へと足を踏み入れる。薄暗い寝室のベッドの上で、小さな身体を丸めてまどろむその人にそっと声をかけた。
「可南さん、黒瀬です。具合どうですか? 一回何か飲むか食べるかしましょう。……聞こえてます?」
「……りゅー? ……ん、龍さん?あれっ、珠希は?」
「……かわ、あっ、えっと……俺だけです。もう21時ですよ。何か腹に入れませんか? まだちょっと熱っぽいすかね」
熱で潤んだ瞳とぼんやりとした表情に、危うく 「可愛い」と言いかけて、すんでの所で理性が止めた。額を手の甲で触ってみれば、自分の手よりもだいぶ温かい。
「いらない。空いてない」
「そんな訳ないでしょう。水も減ってないところを見ると、丸一日ほとんど飲まず食わずですよね? 治るもんも治りませんよ。ゼリー、卵粥、バナナ……この辺にも色々置いてありますけど、何がいいです? 取りあえず水分は今すぐです」
「んー……」
「聞いてます?? これじゃ木村さんもあぁなるの分かりますねぇ」
普段なら状況把握は一瞬で、的確な指示を各所へ飛ばすはずの可南の頭は、高熱のせいで完全に停止しているようだった。
ぼんやりと焦点の合わない薄紅色の瞳が龍を見上げる。
「なに……? ゆっくり言って。今、アタマのパフォーマンス激重……」
「激重? でしたら、えー……ゼリー、粥、バナナ、その他、どれがいいです?」
「いらない」
「何ならいけそうですか?」
「嫌だ」
「駄々っ子ですか。水は?」
「いらない」
「はぁ……まぁそんな嫌ならいいですけど。何のために行ったの?! って木村さんに叱られそうっすね。じゃあ出てるやつ一旦冷蔵庫入れてきます」
キッチンで品物を片付け、冷えた空気の漂う寝室へと再び戻ってきた。これ以上やり取りを引き伸ばしても本人の負担になるだけだと判断し、帰り支度をする。
「可南さん、何もなければ俺はこれで失礼しますが……やっぱりせめて水は一口ぐらい飲みません?」
「……ここに」
「ここ?」
「……篤史さんが今」
「はい」
「LINEで都市伝説を送って来て……」
「はいっ?? あ、すんません。……え?」
「ロフトベッドが異界に通じてるっていう、グニャってなる……人が」
思わず絶句した。
熱で弱っている人に対して、しかもよりによってホラー嫌いなこの人に怪談の類いを送りつけるなんて何を考えているのか。
(考え……ん? まさか篤史さん、こうなるの予想してわざと俺がここに居るタイミングで怖い話を送った? またあの人はどうしてこう余計な事を)
そう、最近妙に篤史は龍と可南が関わるように仕向けてくる。それに気づいた龍は悟ったのだ。 自分の恋心はどういうわけか篤史に完全に気づかれていると。
精悍な顔立ちをわずかに歪め、龍は内心激しく頭を抱えてしまった。
「だから……ここに」
「……あぁ、俺にここに居ろってことですか?」
「…ん」
普段の飄々とした姿からは想像もつかない、縋るような、不安気な目で見つめられるとギュッと胸が締まる。
熱の不安感と恐怖心が重なって人恋しくなっているこの姿を見てしまえば、置いて帰ることなんて出来ない。
とはいえ、この手の怪談は聞いたことがあっても、それの対処法や「現実味がない作り話だ」と論破出来るほどの知識も言葉も、龍は持ち合わせていなかった。
つまり、言葉でどうにもできないなら態度で安心させるしかない。龍はベッドの端に腰掛けると可南に言った。
「いいですよ。ついでですしもう少しくらい。何か話しましょうか? 手でも握ります?
都市伝説なんて創作だって聞きますしそんなに──」
「ここに、つなぐ」
「えっ? つな……あぁ。えっと、はい」
さりげなく冗談で言った提案は受け入れられ、龍の手より一回り小さい華奢な手が差し出された。
ただ安心させるために繋ぐだけ、と下心を押し隠してその手を取ると、スルスルと指が絡んでくる。
(この繋ぎ方は……けど、無意識よな。意味なんて、きっとなくて)
ここに来たのが篤史でも、可南は同じことを頼んだだろう。信頼できる友人として、頼み事のできる仲間として。
それが分かっていた龍は、組んだ指から伝わる熱が逃げないように、もう一方の手でそっと包んだ。
「……後は? 何かしておくことあります? 家の事とか」
「あと? ……あとは、んー……俺を、ずっと……見て…て」
「ずっと? というのは、どういう意味で」
言葉の意図を確かめようと問いかけた時には、すでに規則正しい小さな息づかいが聞こえ始めていた。
いつもなら夜寝るために、薬と酒の力を借りる彼がスッと眠りに落ちた。
(こんな早く寝られるならいつも熱があった方がいいんじゃ?……いやいや、そういうことやないな)
龍は握りしめられた手と、規則正しく上下する胸元を見つめ静かに呟いた。
「……しょうがないですねぇ。でも、この手も目もずっと離さない。って言ったら……きっと貴方は困るでしょう?」
返ってくる返事はもちろんなかった。
いつもより血色のいい顔に思わず触れたくなってくる。
見ているだけで欲が出る。もっと近づきたくなる、触れたくなる。手だけじゃなく、もっと、もっと、もっと──
そこで龍は慌てて首を振った。
「本当に……ずっとこうしてていいんですか? ねぇ、可南さん」
薄暗い部屋の中に、誰にも届かない問いかけだけが優しく落ちた。




