54話 願いの先に
《可南視点》
ある日の午後、借りていた灯里のノートを返すため、俺は篤史と共に西村家を訪れていた。
「元気そうで良かった。大きくなって、本当に」
懐かしい、顔だった。西村さんの、この優しい笑顔を覚えている。幸せな親子の時間の中に、俺を加えてくれた人。
それを俺は……壊して。俺だったら悲しむ人は居なかった。壊れるものも何も持っていなかったのに。
身体は硬直し、用意していた言葉さえ見失い俺はただその場に立ちつくしていた。
それでも無理やり体を動かして、彼女に深く頭を下げる。たった一言、すみません。とそれだけ口にして。
「顔を上げて。話を聞かせてくれる?」
そう言って西村さんは俺に笑いかけた。
その時、そっと背中に手が添えられた感覚がした。
「可南。過ぎた事は変わらないけど、彼女と君のこれからは変えられる。行けるね」
その小さな囁きはやけにはっきり耳に届いた。
そう、起きた事は変わらない。
それでも俺がここに来て、彼女に会わなければいけないと思ったのは俺だけが知るあの子のことを話すため。
「どうぞ」と声をかけてくる彼女に返事をして、俺はもう一歩玄関から歩みを進め、靴を脱いだ。
◆◇◆◇
《篤史視点》
俺はずっと可南の横顔を注視していた。
玄関先での様子は意外なものだった。灯里の母親や、この家を見て何かを思い出し、多少の反応はすると予想していたが、まさか喋れなくなる程動揺するとは思ってもいなかった。
居間に飾られた灯里の写真を目にした時も不自然に重心がブレたので、とっさに腕を引いてやるとハッとした顔をしてこちらを見て軽く頷いた。
俺には分からない感情がきっと彼の中で渦巻いていたのだろう。自責の念に押し潰されそうな表情の彼を見るにつけ、同行して正解だったと心から思った。
初めにノートを返し、しばらく他愛のない話をしていると大分可南の調子も戻って来て、話は徐々に本題へと入って行った。
事故当日のことをすべて話し終わった後、可南は彼女の目を見据えて何か言葉を待っているようだった。
「ここに来るのも辛かったでしょ。教えてくれてありがとう。やっと…これでちゃんとわかった」
可南は口をキュッと一文字に結んで、目を伏せた。すると西村さんは、親が子供と話す時に目線を合わせるのと同じように、少し前屈みになり彼の視線を掬い上げた。
「あのね、貴方に全部の責任があったなんて、私は思えないの。可南君が今ちゃんと生きてて、幸せでいるなら、きっと灯里も笑って見てる。私は……そう思いたい。だって、それがあの子の最後の願いじゃない? 可南君に『生きて』って。それがちゃんと叶ってるから」
「はい」と、可南が掠れた声でかろうじて返事をした。そしてまた深々と頭を下げる。
その後も少し思い出話をして、切りのいい所でお暇することにした。帰り際に彼女は優しく笑って「またいつでも来てね」と可南に言い、彼はそれにも「はい」と答えた。
◆◇◆◇
「帰りは僕が運転しますよ。ペーパーなので危なっかしく感じて嫌かもしれませんけど」
「うん」
可南はその提案に頷いて、助手席に向かおうとしたが、退院してから初めての遠出で疲れが出るといけないと思った篤史は、彼にゆっくりしてもらおうと思い後部座席を勧めた。
特に気にする様子もなく可南は促されるまま後部座席のドアノブに手をかけた。
「鍵は開いてます」
一向にドアを開ける気配のない可南に声をかけると、ドアノブから手を離し、なぜか明後日の方向へと歩き始めた。
この辺りの土地勘が戻ったのか、迷うことなくどこかを目指しているような歩みだった。訊ねるのは後にして、篤史はとりあえず彼の後を追うことにした。
路地を数回曲がった所で、広めの道路に出た。そこで可南は初めて足を止め、少し先を見つめる。
「向こうになにか?」
篤史がそう尋ねると小さな声で可南が答えた。
「あそこ。昔はフェンスじゃなくてブロック塀があった。いま帽子のおじいさんが渡った所」
少し先にある短い横断歩道を渡った向こう側に、グリーンのフェンスが見える。そこには小さな駐車場の様な空きスペースがあった。
(あそこが例の現場、かな? 可南はどうしてここへ?)
篤史が疑問に思っていると、再び可南は歩き始めた。この緊張感を感じているのは篤史だけだった。周りの人は素知らぬ顔ですれ違っていく。
歩き続けて横断歩道を渡り終わると、彼はフェンスの前で立ち止まった。
今はもう献花も置かれていないその場所で、彼は目を閉じそっと手を合わせた。自分もそれにならうべきだろう、と同じように手を合わせ、彼女の冥福を祈ると同時に、隣に居るその人の救済を願った。
「戻ろう」
そう言うと、可南は来た時と変わらない足取りで前を歩き始めた。
◆◇◆◇
夕方の早い時間は下道も高速道路も空いていた。後部座席では可南が、どこを見るでもなくぼんやりとした表情で前方を見ていた。
三十分ほど走った頃ぽつりと彼がつぶやく。
「俺が、灯里の願いだって」
「ええ」
「俺が……」
まだ何かを考え続けているような間が空いて、いい機会だと思った篤史はひとつ話を振った。
「そういえば以前、首の傷のこと話してくれましたよね。その傷、変だなと思ったことはありませんか?」
「……見た目とかの話?」
「いいえ、位置です」
「位置?……いや、どういうこと?」
「頸動脈の位置は、喉元に触れれば拍動で誰でも分かります。それなのに、貴方と心中する気だったはずの親御さんはあえてその場所を外している。つまり、どうしようもない狂気の中に居ても、貴方に致命傷を与えられなかった。何か理由があるとは思いませんか?」
「すぐには、思い付かないな」
「衝動には抗えなかったけど、本当は可南さんには生きて欲しかったんじゃないでしょうか」
「まさか」
その痕は可南にとっては、母からの憎悪と拒絶、そして「死んでしまえ」という呪いの証だった。
しかし、最後に見た母はただ泣いていただけだった。そこには怒りも憎しみも、確かになかったと可南は記憶していた。
(致命傷をあえて避けた……? だとしたら、あの瞬間あの人は親として、俺が生きることを望み願ったのだろうか。俺の友達が最後にそう願ったように)
今まで可南が考えもしなかった、にわかには信じられない仮説だったが否定はしきれなかった。
「そんな可能性……あるかな」
「ええ、多分に。僕はそう思いますよ」
迷いを払いのけるような篤史の力強い語気。
今はわずかとなった痛みの残渣が、また散ってゆくのを可南は感じていた。




