49話 パンドラの箱
灯里のノートが龍へ託されてから、数日が過ぎた。
話をどう切り出せばいいかと考えているうちに、可南の自宅療養期間の終了が近づいて来てしまい、龍はようやく彼の家へ行く決心をした。
◆◇◆◇
インターホンを鳴らすと、玄関から薫が顔を出した。どうやら彼も会社帰りに寄っていたらしい。
軽く会釈を交わし、龍は薫に案内されて廊下を進む。いざ寝室のドアを目の前にすると、胸の奥がわずかに重くなった。
中に入ると、そこには以前と変わらず笑い、薫と話す可南の姿があった。龍の姿を見ると可南は少し驚いたように目を見開く。
「龍さん」
龍は結局病院に見舞いにも行かず、ここにも来なかったので、可南としてはあの台風の晩に会社で揉めて以来、龍とは会っていないことになる。
「……」
龍の視線は一点を見つめていた。
まず入りはこう、次にこう言って……と、道中何度も会話の流れをシミュレーションしていたはずなのに、頭の中は真っ白になっていた。
口からは話どころか声さえ出てくれない。無言のままベッドの横まで歩くと、その勢いのまま可南の胸ぐらに掴みかかった。
「ちょっ、龍さん?!何やってんすか!」
「待って、いい」
慌てて薫が制止に入ろうとするのを、可南が遮る。
「どこがです?!龍さん手を離して!!」
可南は、掴みかかってきた龍とまっすぐに視線を合わせていた。少し眉尻の下がった表情には恐怖なんて微塵も感じない。
「龍さんが俺を見つけてくれたって聞いた。ありがとう」
薫は見た。
「いい」とは言われたが、今すぐ龍を引き剥がしたほうがいいんじゃないか。無いとは思うが万が一、龍が可南に手を上げたら大変なことになるんじゃないか。
そんなことを考えながらハラハラしていると、何かが可南の胸元に落ちたのを。
自分も上背のある方だが、それより体格のいい龍の背中が、まるで子供のように小さく震えていたのを。
「……ごめん」
可南が人差し指の背で、龍の瞳から一筋溢れた涙を優しく掬う。
龍は胸ぐらから手を離し、自分の顔に触れるその細い手にそっと自分の手を重ねた。
その人にしては珍しく温かい手に安堵して、余計に涙が出る。この温かさも、頬に伝わる指先の感触も夢じゃないのだと、龍はやっと実感することができた。
「いえ……なんも」
龍はそれ以上気の利いたことが言えず、やっと身を引いて二人に背を向ける。一度荒く息を吐き出して、昂ぶった感情を無理やり逃がした。
そして居間から椅子を取ってくると、ベッドの横に置いて腰掛けた。反対側のベッドサイドでは、薫がベッドの端に直接腰掛け、神妙な面持ちでこちらを見つめていた。
「……今、話いいですか?」
「いいよ。えっと」
「薫さんも知ってる話なんで」
目配せをされて、薫はコクリとうなずいた。
「そう。何?」
これは本当に今この人に教えるべきことなのか、他に手は無いのだろうか。
口を開くその瞬間まで龍は迷っていた。
◆◇◆◇
「西村灯里さんって覚えてますか?」
意を決して、龍は問いかけた。
「にしむらあかり?社員にはいないね。にしむら、にしむら……でも、ちょっと待って、聞いたことあるような? 取引先の──」
「目白雛小学校3年3組。西村灯里さん。貴方の友達ですよ」
(3年3組……にしむらあかり、にしむら、あかり、あかり……あかり、)
──可南君!!
宙を彷徨っていた可南の視線がピタリと止まる。すぐにその瞳は大きく見開かれた。
「……あかり、の声だ。そう……声っ」
「可南さん、落ち着いてよく聞いて下さいよ!灯里さんは」
「なんで、忘れて、あかりが俺を呼んだ。呼ばれたんだ、あの時。そしたら……俺を……俺のせいで」
「聞いて下さい!そんなこと思ってないんです。貴方に見せたいものが」
龍が何かを喋っていたが、可南はもうそれどころではなかった。
急激に胸が何かに締められたようになり、吸っても吸っても空気が入った気がしない。
キィーンと鋭い金属的な耳鳴りがして、体の血液が逆流するような熱さを感じるのに、身体中に嫌な冷汗が滲んでいく。
痺れ始める指先も頭も、現実と幻覚の境をどんどん曖昧にしていった。
目を開いているはずなのに、可南の視界は急激に白んで景色を変えていく。目の前に浮かび上がるのは、いつかどこかで見た街並み。
(この先を見たくない、見てはいけない。今すぐ引き返さないと……じゃないと、僕は。
最後に見た彼女の姿は……姿が、ここに、こびりついて──)
◆◇◆◇
ここは──……あの日だ。
赤黒い水溜まり、コンクリートの粉っぽい煙、排気ガスの匂い、胸の中をグチャグチャと暴力的に掻き回してくる、嗅いだことのない不快な臭い。
激しい土砂降りが、僕の視界に紗をかけた。霞んだその先にあったのは……人だったはずのモノ。僕の罪、僕の咎、僕の……トモダチ。
時が止まったまま切り取られた光景を視認してすぐ、鮮烈に塗りたくられた赤が浮き上がり、緞帳のように視界一杯に広がると、僕を包みすべてを僕から隠してしまった。
◆◇◆◇
前かがみに丸められていた可南の背中から力が抜け、顔を覆っていた手がふわりと離れる。上半身が横に倒れかけるのを薫が慌てて受け止めた。頭を手で支えながら、ぎこちない動きでゆっくりと彼を寝かせる。
「人の話を聞けよ!! この過剰な反応は何なんすか??」
苛立ちと自己嫌悪をぶつけるような龍の怒鳴り声に、薫は睨むような視線を向けた。
「こんな……今のこの状態を見てよくそんな言い方出来ますね? もうちょっと伝え方どうにかなりませんでしたか。龍さんだったら任せて大丈夫だと思って、俺と篤史さんは」
「それはっ………すみません、俺は……。向こうで頭冷やすんで、ここ頼みます」
「……」
龍は寝室を出ると、そのまま玄関へ向かい外へ出て行ったようだった。静まり返った部屋に残された薫は、弱々しく呼吸を繰り返す可南の額に手を当て、小さく息を吐いた。
◆◇◆◇
──15分後
マンションのエレベーターホールの隅にある休憩スペースで、ぼんやりとスマホの画面を眺めていた龍を見つけ、薫は無言で横に並んだ。
「龍さん、すみません。俺……龍さんに丸投げしておいて勝手だったと思って」
「いえ。あの人が絡むと俺が使い物にならないのは事実なんで。薫さんが怒るのも分かります」
薫は眉根を寄せて少し考える素振りをすると、思い切ったように龍の顔を見上げ口を開いた。
「もしかして、ずっと考えてたんですけど……龍さんって可南さんのこと好きなんですか? でも前、彼女いたって言ってたし、ああ見えても可南さん男だから……俺変なこと言ってますよね??」
「それ今聞くことです? まぁ……ええ。俺は、性別に固執しないので」
龍の口から淡々と告げられた予想外のカミングアウトに、薫は思わず瞬きを繰り返した。
『男が男を好き』そんな言い難いだろうことを、誤魔化しもせず潔く人に伝えられる強さに、尊敬の念を抱いてしまう。
「あ、そういう……じゃあ男女どっちも対象になるってことですか。だからさっき……そうかぁ。多様性の時代に乗ってますね」
言っているうちに状況が呑み込めてきたのか、薫の目が徐々に悪戯っぽく輝き始めた。
(これはひょっとして、とんでもなく重大な秘密を共有してしまったのでは?)
目の前の、ポーカーフェイスが常な先輩に訪れるかもしれない恋の嵐を想像し、薫の口元は早くもニヤニヤと緩みだしている。
「あの……その顔止めてもらえませんか」
見るからに面白がり始めた薫の生温かい視線に、龍は居心地の悪そうな顔をしてフイッと視線を逸らした。
「俺は元からこういう顔ですけど?」
(いやいやいや)
絶対に嘘だ。そう思ったが、龍はそれ以上突っ込む気力もなく、ただげんなりと重い溜息を吐き出すしかなかった。




