48話 雨音に消えた日 後編
しばらくして、西村は一冊の学習ノートを手に戻ってきた。
角は少し擦り切れ、表紙は長い年月を重ねた紙特有の柔らかな色合いになっている。小学生がよく使う、ごくありふれた学習ノートだった。
「これ、見てもらえる?」
篤史はそれを受け取り、表紙へ視線を落とした。
「これは……」
「灯里は遊びを考えるのが大好きな子だったの。暗号表を作ったり、ノートだけで遊べるゲームを考えたり。思いついたことは何でもここへ書いていたのよ。……ちょっといい?」
西村が手を伸ばしてきたので、篤史は開いていたノートを彼女の方へ向けた。
「所々日記みたいなこととか、ちょっとしたメモも書いてあってね……ほら、この辺り」
指で指し示されたページには、小学生らしい大きく不揃いな文字が並んでいた。
『今日はかなん君のキズがふえているのを見つけた。私も守らなきゃ』
『私が泣いていたらかなん君がダイキ君を追いかけてつかまえてくれた。かなん君は強いのにどうしてお母さんには勝てないのかな?私でも勝てそうなのに』
『かなん君と作ったボール遊びがはやってる。級を作ってまとめた表を配る』
『ヘン顔で かなん君がばく笑した!」
遊びのルールや暗号、子どもらしい落書きが並ぶページの合間に不意に現れる「かなん君」の文字。
その頻度は決して多くない。
けれど、一つひとつの短い文章から、灯里にとって可南がどれほど身近で、大切な存在だったのかが伝わってきた。
「灯里さんは……可南さんのことを」
薫が小さく呟く。
「好きだったんじゃないかしら」
西村はノートを見つめたまま続けた。
「可南君を家で手当てしたことがあったんだけど、そのときはもう本気で怒っていてね。『私が守ってあげる』って、何度も言ってた。私も児童相談所へ相談したり、出来ることはしていたんだけれど……」
言葉は途切れた。
手は尽くした。それでも、その日は来てしまった。
篤史はノートから視線を上げる。
「可南さんは、自分に罪悪感があるみたいなんです」
西村は少し驚いたように目を見開いて、静かに首を横へ振る。
「子どもにはどうしようもなかったことでしょう?」
西村はそう言ってから、再びノートへ目を落とした。
「私も何度も考えることがあるのよ。あの日迎えに行ってたら、雨の日は車が少ない道を使うようにって教えていたら……ほんの少しでも何かが違ってたらって、そういうことを。
でも、考え続けても何かが変わるわけじゃなくて、次の日が来るだけなの。次の日も、その次の日も」
西村はそこで言葉を切り、湯呑みを手にすると半分ほど残ったお茶を見つめた。
小さな深呼吸の後、ゆっくり顔を上げると篤史と薫に視線を移した。
「だからね、可南君まで罪悪感を背負う必要はないのよ」
──可南君まで。
その言葉を聞いて、篤史は彼女の中でもまだ、この件が終わっていないのだと感じた。何十年という月日が流れても、子供を失った痛みが簡単に消えるはずがない。
それでも、彼女は今ここで、過去を責めるためではなく、残された人間がどう生きるかを話していた。
「灯里がどう思うかなんて、私にも分からないわ。でも、あの子は可南君が笑っているだけで嬉しい子だったから。だから私は……生きて幸せでいてくれたら、それでいいんじゃないかって思ってるの」
篤史は返事ができなかった。
可南がその言葉を素直に受け止められる日は来るのだろうか。そんな思いだけが胸に残る。
隣で薫がノートへ手を伸ばした。
「西村さん。このノート、お借りしてもいいでしょうか」
「どうぞ、構いませんよ」
迷いのない返事がすぐに帰ってくる。
「ありがとうございます。これはきっと……可南さんが知らなきゃいけないことだと思うんです。こんなに大切に思ってくれていた友達のことを忘れたままなんて……そんなの、きっと違いますから」
「可南君には、こんなふうに動いてくれるお友達がいるのね。ああいう子こそ幸せになって欲しいのに、どうしてかいつも幸せから一番遠いところにいるのよね。……それが可哀想で」
「僕らの知っている彼は、人に憐れまれるような生き方はしていません」
間髪入れずに放たれた篤史の言葉は、本人も驚くくらい強かった。
「それに、幸せかどうかなんて本人が決めることじゃありませんか。僕はそう思います」
西村は少し驚いて動きを止め、それから申し訳なさそうに言った。
「そうね……ごめんなさい。あなたの言う通りだわ」
「あ、いえ。こちらこそ、不躾なことを言ってしまいすみません」
ほんの少しだけ和らいだ空気を感じながら、篤史と薫は暇を告げた。立ち上がって、深く一礼する。
「本当に今日はありがとうございました。近いうちに必ずノートはお返しに伺います」
「ええ。気を付けて帰ってね。可南君にも、よろしく伝えてちょうだい」
西村は最後、どこか懐かしそうに微笑んだ。
柔らかな陽射しの中、二人は静かに西村家をあとにした。帰りの車内では、お互いほとんど言葉を交わさなかった。
今日知ったことが、可南にとって意味があるものかどうかは分からない。それでも、彼が忘れるべきじゃないことを忘れているのは確かで、このノートはそれを取り戻すためのきっかけになるかもしれない。
そんな頼りない希望を胸に二人は帰路についた。
◆◇◆◇
後日、篤史たちは得た情報を龍へ伝え、灯里のノートも託した。
これを可南へ渡す役目は龍が最も適任だろう。それが篤史の考えであり、薫もまた異論はなかった。




