47話 雨音に消えた日 前編
「何か、俺全然知らなくて…すみません」
茶色い髪を手ぐしで撫でつけながら、助手席の薫が申し訳なさそうに呟いた。
「別に仕事とかじゃないから。それに今日車出してもらってるし、僕は十分助かってるよ」
篤史はフロントガラスの向こうに流れる景色に視線を向けたまま、穏やかに返す。
二人は今日、とある人物の家へ向かっていた。
当初は篤史と龍で行く予定だった。
しかし数日前、龍のQAチームが担当している大手クライアントのシステムで緊急トラブルが起きた。終わりの見えない再現検証とデータ解析のループにはまり、休日出勤まで余儀なくされた龍は完全に身動きが取れなくなってしまったのだ。
そんな中、龍が声をかけたのが薫である。彼なら少しは事情も知っていたし、何より移動手段となる車を持っていた。
目的地が決まっていて、ただそこに行くだけなら篤史一人でも問題はない。
しかし、今回の探索は目的地がはっきりしていない。捜索範囲も広く、手がかりといえば今もいるかどうか分からない、古い住人の名前だけ。確実に、人手と移動手段を確保する必要があった。
薫は薫で、水面下で篤史と龍が可南の過去を探るために動いていたことを知り、胸の奥に小さなしこりを抱えていた。
最近の可南の異変に気づきながらも、何もしなかった自分に負い目を感じていた。だから、今からでも協力できることがあるならと、二つ返事で車を出したのだった。
車を走らせること二時間半、二人はおおよその目的地へと辿り着いた。
整然と一軒家が立ち並ぶその区画は、休日の午後のゆったりとした空気に満ちていた。まばらな人通りがこの街の平穏さを際立たせている。
篤史たちは車を道路の端に寄せると、意を決して通行人に声を掛け始めた。
◆◇◆◇
聞き込みを開始してから20分後。目的の家は拍子抜けするほどあっさりと見つかった。この辺りは持ち家が多く、住民の入れ替わりがほとんどないのだという。
何より、かつてこの近所で起きた小学生の痛ましい事故の記憶は、何十年という歳月が流れた今でも、西村家という名前と共に周辺の人々の心に深く刻み込まれていた。
「ここかぁ。引っ越しも……しなかったんですね」
薫の呟きが、静かな住宅街の空気に溶けていく。
目の前の建物はどこにでもある一軒家だった。
庭は綺麗に整えられ、玄関の脇にはおとぎ話に出てきそうな服を着た動物のオブジェが置かれている。
今にも中から子どもたちの笑い声が響いてきそうな、明るい印象の家。
それがかえって、止まったままになってしまった時間を表しているようで薫の胸がキュッと締め付けられた。
「……インターホン鳴らしますか?」
「うん。アポはどうせとれないし。ご在宅だといいんだけど」
促されるまま、薫はボタンを押した。
ピンポーンー……
よく聞くチャイムの音が鳴り終わり、数秒の間が空く。スピーカーからわずかなノイズが聞こえた。
「──はい」
「突然すみません。僕たち旭可南の友人で……今日は西村さんにお聞きしたいことがあって来ました。お時間取らせませんので、少しお話良いでしょうか」
篤史はまるで台本でも読み上げるように、淀みなく簡単な自己紹介と説明をした。
「……旭、可南君?可南君の友達?」
戸惑いと、どこか懐かしむような響きを含んだ声が返ってくる。
「はい」
「ちょっとお待ち下さいね」
◆◇◆◇
ゆっくりとドアが開かれた。
顔を覗かせたのは、優しそうな目元の端に皺を数本たたえた、六十代くらいの上品な女性だった。
彼女は困惑した様子を見せたものの、すぐに柔らかい眼差しを二人に向け、家の中へと招き入れてくれた。
「どうぞ、上がって。そこへ座ってくださいな」
「ありがとうございます。お邪魔します」
二人は軽く頭を下げ、勧められるまま居間へ足を踏み入れた。
「すみません。突然伺ったのに、中へまで上がらせていただいて」
篤史が恐縮しつつ頭を下げると、西村は穏やかに首を横へ振った。
「いいんです。それで……可南君のお友達が、どうしてうちへ? 可南君は一緒じゃないの?」
もっともな質問をされて、篤史は一度視線を落とし小さく息を整えた。
「彼は来ていません。正確には、来られない状況です。これからお話しすることは、もしかしたらお気を悪くされる内容かもしれません。それでも……聞いていただけますか」
「ええ、もちろん」
その返事を聞き、篤史は過激な表現は避けながら、可南の現状をゆっくりと説明し始めた。
心身の不調が限界を迎え、救急搬送されたこと。彼の現状を変えるため、同僚とともに過去を調べ始めたこと。そして、その過程で西村家の事故が何らかの形で関係しているのではないかと考え、この場所まで来たこと。
他人から見れば、亡くなった娘のことを蒸し返すひどく無神経な話だ。
それは篤史自身が一番よく分かっていた。それでも、可南の現状を変えられる可能性があるのなら、この程度の無礼は承知の上だった。
言葉を選びながら話す篤史の隣で、薫もただ静かに俯いている。彼もまた、責められても仕方がないと覚悟していた。しかし、西村は話を遮ることなく最後まで耳を傾け、時折小さく頷くだけだった。
そして話が終わると、独り言のようにこぼした。
「……可南君だったのね」
その声色には驚きよりも、長年胸につかえていたものが取れた。そんな響きがあった。
「……というと?」
篤史が問い返すと、西村は遠くを見るように目を細める。
「あの事故のときね、灯里が誰かと一緒にいたって話をしていた人がいたんです。小学生が二人いたって。でも、気がついたらその子はいなくなっていて……名前も分からないままでした。少し擦り傷があったくらいだって聞いていましたから、無事だったならいいけれど、きっと怖かったでしょうね」
篤史は何も言えなかった。
あの日、その場にいたもう一人。
それが可南だったのなら……。今まで疑問だったことの答えがここにある気がした。
「可南君はね、灯里とよく遊んでいたのよ」
西村は懐かしそうに微笑む。
「あそこはちょっと大変なお家だったから、たまに夕飯のおかずをお裾分けに行くこともあったの。お母さんは悪い方じゃなかったんだけど……とても繊細で、人に気を遣いすぎる人だった。いつも疲れているように見えたわ」
苦々しい記憶を思い出すように表情が曇る。
「私、お仕置きしている場に居合わせたことがあって。慌てて可南君を連れ出したこともあったわね。でも……まさか、あんなことになるなんて思いもしなかった」
「……そうですか」
薫の返事は、それだけだった。
どんな言葉も、この場では浮いてしまう気がして、ただただ話の続きを待っていた。
「あの子の周りが少し落ち着いてからはね、また二人で毎日のように遊ぶようになったの。うちにもよく来てくれて、私にも懐いてくれていたのよ」
記憶を少しずつ手繰り寄せるように、時折考えながら西村は続ける。
「でも灯里が亡くなってからは、まるで私のことまで忘れてしまったみたいでね。外で会っても他人みたいによそよそしくて、一度も話しかけてこなかったの。あの子は、そんなことをする子じゃないでしょう? だから、ずっと不思議で」
「無意識に……忘れてしまったんでしょうか」
篤史の問いに、西村はゆっくりと首を傾げる。
「分からないわ。でも、もしあの瞬間、あの場所に可南君もいたのだとしたら……あの子にとって、とても辛い出来事だったでしょうね」
その言葉に、部屋は静まり返った。
誰も口を開かなかった。
外は晴れていたのに、篤史と薫は湿気を含んだ雨の香りを部屋の中に感じていた。
「でもね、灯里はきっと安心していると思うの。少し待っていてくださいね。あなたたちに見てもらいたいものがあるから」
そう言うと西村は静かに席を立ち、廊下の奥へ姿を消した。




