45話 一言の意味
退院の日程が決まり、可南がすぐにでも仕事に戻れそうだと珠希に話すと、電話口で猛烈な勢いで反対された。
今回は珠希にかなり負担をかけてしまっている自覚があるため、一週間も要らないと二度ほど抗議したが彼女は譲らなかった。
そんなに仕事が気になるならリモートで対応しろと言われ、その結果、退院後も自宅で一週間休養することになってしまったのだ。
◆◇◆◇
病室のドアが開いた気配で、可南の意識が浮上する。ゆっくりと目を開けると、そこに立っていたのは珠希だった。電話では、ほぼ毎日仕事の指示をし、連絡を取り合っていたが、彼女がここに顔を出すのは初めてだった。
「わざわざ珠希がどうして」
「本っ当に馬鹿じゃないの?! こんなことする前に私に話すことがあったでしょ?!」
「?!……な、えっ? どっ……どうしたの急に。声大きいよ」
電話で話していた時は、一番最初に体調を気遣う言葉をかけられたきり、あとは淡々と連絡事項を共有するだけだった。それなのに、ここへ来て急に態度を豹変させ捲し立てる彼女に、可南は動揺を隠せない。
「私聞いたでしょ?? 話すことは無いのかって!」
「静かにって! ん? うん。聞かれたけどあれは……珠希が怒ってたから謝ったじゃ──」
「どうしてそんな所ばっかり鈍感なのよ!」
「……」
「何よ! そんな黙って見つめても答えたことにはならないんだからね?」
「珠希は悪くないよ。俺がもうちょっとちゃんと周りを見れば良かったんだ」
「はぁ?? あんたまだそんな事言ってるの? あんたがちゃんと見て考えなきゃいけないのは自分の事でしょ!?」
「そういう意味じゃない。俺が相手にとって『負担になるだろう』って思ってたことが、相手にとったら全然そんなことなかったって話。
皆も君も、俺が思うよりずっと人間性が優れていたのに……俺がそれに気付けてなかった。だから悪いのは俺で、珠希に責任なんてないってこと」
「私は別にそんなこと……」
珠希は言葉を詰まらせた。図星だったのだ。確かに彼女は自分を責めていた。
自分がちゃんと本音を聞き出せていれば、何かできたかもしれない。無理にでも問い詰めていれば、こんなことにならなかったかもしれない。一番近くで違和感を感じていたのに。
そんな後悔がずっと胸の内に根を張っていたのを、可南に見透かされたようだった。
電話越しに聞いていた可南の声はいつも通りで、今回の騒動も現実味が薄かった。でも、こうして病室で向かい合った彼は、以前より少し痩せていて、どこか儚く見えた。
その姿を目の当たりにした瞬間、隅に押しやっていた自責の念が、一気に湧き上がってくる。珠希の胸中を知ってか知らずか、可南は飄々と続けた。
「それに本当に珠希に言うことはなかったよ。仕事面だけじゃなくて身の回りのことまでしてもらってて、むしろ何を返せるか考えてるくらいでさ」
「……返す?」
「うん」
「じゃあ、次に私が「何か私に話すことは無い?」って聞いたら、その時気にかかっている事をちゃんと話しなさいよ。私がそう聞く時は、きっとまたあんたの様子がおかしい時だから」
「それ怒ってるときにも言わない?」
「その時は「謝ることは無い?」か「言わなきゃいけない事は無い?」って聞くでしょ」
「あー、うん。次は話す……と思う」
「そうやって逃げ道を作らないで」
「……はい。あ、でも、ほらやっぱ、ちょっと、ねぇ? そういうの言いにくいっていうか、どうも、なかなか、だって俺あんまり」
「もう! 言うの言わないの、どっち!? 二択よ!」
病室に長い沈黙が満ちた。
可南は珠希から視線を外し、瞬きを忘れたように床の一点を見つめていた。答えることに何の意味があるのか、それを考えているような静かな表情だった
ただ二択の返事をするだけなのに、どうしてこんなに時間がかかるのかと、珠希は疑問に思っていた。仕事でもプライベートでも、基本即断即決の彼が、こんな単純な質問で何を迷うのかが分からない。
やがて沈黙の末に、可南はゆっくりと口を開いた。
「……Do you need such a useless me?(そんな薄弱で無益な俺の、需要があるのかな)」
返ってきた言葉に、珠希は息を呑み、じっと彼を見つめた。英語だったことに驚いたわけではない。
その言葉が、長い付き合いの中で一度も聞いたことのない、おそらく初めて聞く彼の弱音だったから固まってしまった。
困ったように笑う表情はいつも通りに見える。けれど、その声は酷く頼りなく、冗談でも虚勢でもない本心を話しているのだと分かった。
これまでどんな忠告もただ聞き流すだけだった彼が、初めて自分と向き合ってくれた。
なぜ英語で言ってきたのかは分からなかったが、この返答だけは絶対に間違えてはいけない、珠希はそう直感していた。
「それも……あんたなんでしょ? だったら私には需要『しか』ないの。だからちゃんと話すこと。いい?」
「……そう。分かった、話す」
自分は間違えずに答えられただろうか。
弱音を吐いてもいいのだと、彼に伝えることができただろうか。
誰もが愚痴や弱音を吐き出し合って日々を乗り切っている。それなのに、彼からそんな言葉がほとんど出てこないことを、珠希は今まで疑問に感じたことがなかった。ネガティブな感情とは無縁の人種だと思っていた。
これだけ長く一緒にいた自分も騙されてしまうくらい、可南の「社長」としての自己プロデュースはよく出来ていた。
でも珠希は、今の弱音をこぼす可南のほうが良いと思った。少し幼く見えたその笑顔に、安心感を抱いていた。
「いいわ、約束よ。それじゃ私そろそろ帰るわね。それと、リモートは一日三時間まで! 違反したら私が──」
そこで一呼吸置くと、珠希はわざと口角を上げる。
「就業規則全65ページを全文朗読しに来てあげる」
そのとどめの一言に、可南は思わず苦笑した。
「それただの拷問だから。明日からここ鍵閉めようかな……」
顔を見合わせて二人とも同時に小さく笑うと、ようやく室内に柔らかな空気感が戻った。
珠希は軽く挨拶をすると病室を後にした。ドアが閉まる音は軽く、けれどどこか温かく響いていた。
◆◇◆◇
可南はドアをしばらく見つめたあと、深く息を吐く。
珠希には意味が通じてしまった。あれは本当に、言ってもいいことだったのだろうか。何とも言えない後味の悪さが可南の胸の奥に残る。
普通の人のふりをして、誰かに荷物を背負わせる。そんなろくでもないことを、自分はまたしてしまったんじゃないか。
その疑問は珠希が帰ったあとも、しばらく、頭にこびりついて離れなかった。




