42話 可愛い名前
あの自傷騒動の夜から三日ほどして、可南の叔母から会社へ連絡があった。
彼の状態が落ち着き、もうほぼ普段通りに会話も出来るようになったという。 命に別状はなかったと聞いて、ひとまず篤史も龍も胸を撫で下ろした。
社内では、可南は過労による体調不良のため、一~二か月ほど療養に入ると周知されていた。
社長不在の真相を知るのは、珠希、桜、篤史、そして龍だけだった。薫や凪を含め、他の社員には詳細も伏せられている。
幸い、社内に大きな混乱は起きなかった。
最近の可南の働きぶりを知る社員たちは、心配こそすれど、過労を疑う者はいない。
それどころか、「あの旭さんもやっぱり人間だったんだ」と、どこか安堵とも言える響きの混ざる軽口をたたき、静かに彼の復帰を待つ空気が流れていた。
けれど、問題は何ひとつ解決していなかった。
また同じことが起きるかもしれないという危機感が、篤史と龍の中には残り続けていた。
◆◇◆◇
ある日オフィスの一角で、龍は篤史のデスクの横に立ち、一枚の用紙を差し出した。
「この中で、可愛い名前ってどれだと思います?」
「……」
誰もが見上げるほど大柄で、武骨な見た目の男には似合わない「可愛い」という単語に、篤史は訝しげな顔をした。
龍の顔と、差し出された用紙を順に見て、その書かれていた内容にも首をひねってしまう。
「可南が前に住んでいた所の小学校一覧?……で、何? 可愛い名前って」
「昨夜、可南さんの幼馴染の秋葉さんからまた電話があって、思い出した事があるって言われたんです。旭さんの転校前の学校名を聞いた時、当時の彼女は『可愛い名前の学校だな』って思ったそうで」
「ふぅん、なるほどね」
篤史は眼鏡の位置をツッと直すと、印刷された学校の一覧をじっと眺めた。
「この中で小学生の女の子が『可愛い』って思う響きなら……ココと、ココ。かな」
篤史の指先が、二つの校名を指す。
「菖蒲坂小学校と、目白雛小学校。自分もそう思いました」
「これで学校は二択か。可南の卒業年度は僕の二つ下だから……これなら意外と早いかもしれないよ、龍さん。僕も準備しないと」
「準備?」
「無償で協力してくれる奴ばっかりじゃない。思い通りに動かすには、それなりの報酬を用意しないとね。あ、龍さんは気にしなくていいよ。僕が少し手間をかければいいだけのものだから」
「いいんですか?」
「うん」
篤史は短く答えると、そのままPCに向き直ってキーボードを叩き始めた。その口元から、小さな呟きが漏れる。
(面倒くさいけど……今夜から動くか。前線で動かすのは何人だ? あと、そいつらを納得させる対価の算段をつけないとな)
オンライン上で繋がりのあるゲーム仲間には彼らの要望に応じたゲーム内資産や利権を準備し、他の技術屋の仲間には希少パーツの融通や技術的な協力を持ち掛ければいい。
日頃から連中の面倒を見てやってるのだ、こういう時に使えてこその仲間だろう。
頭の中で手際よく「貸し借り」の段取りを組んでいく篤史の横顔を、龍は静かに見つめていた。




