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変わらない明日を君と  作者: 夏露
第一章
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41話 崩壊

 適当に時間を潰した龍は、可南の家へ向かった。予定よりも着くのが遅くなったので、この時間ならほぼ確実に帰宅しているはずだったのに、ドアフォンからは何の反応も返って来なかった。

 それならば、と龍は用意していた合鍵を使う。


──ガチャ


 一歩部屋に入ると、覚えのある臭いに一気に不安が増し鼓動が跳ねた。(これは前、あの人が自傷していた時と同じ……!)そう思った龍は、慌ててすぐ横の洗面所を覗いて息を飲んだ。


「か……!? 可南さん? 可南! 可南っ!」


 そこには、龍の想像を超えた光景が広がっていた。


 嗅ぎ慣れない鉄の匂い、目に飛び込む鮮やかな色に侵されて、頭の奥が揺さぶられるようにキィンとする。床には手首とシャツの襟から肩も赤に染めた可南が眠るように横たわっていた。


◆◇◆◇


──ギ……ギギ、ガサッ、カツッ


 龍がバタバタと慌ただしくしていると、玄関の方で音がして誰かが入ってきた気配がした。

 しかし、気配はそれ以上動かない。


「今取り込み中ですけどどちらさんです?! 他人の家に勝手に入ってくるなんて──」


「龍さん?」


「?! 篤史さん? 何で……ここに」


 龍の質問に答える前に、篤史は靴を脱ぎこちらに入ってこようとしている様子だった。


「僕は」


「あぁ! 篤史さん、ちょっと待った! それ以上来たら、引き返せませんよ。今そのまま帰れば、いつも通りの日常を過ごせます」


「……僕はその日常に違和感を覚えてここに来た。可南はどこだ? 君はそこで何してる」


 篤史は玄関に入ってすぐ異変に気が付いていた。


 普段この家では嗅いだことのない匂い、気配のない部屋の主、いつもは淡々としている龍の狼狽ぶり。この先にある光景は、きっと見たくはないもの。

 篤史の手のひらは徐々に汗ばんできていた。


◆◇◆◇

 

 冷静を装っていても、龍はやはり動転していた。いつもの篤史の柔和な口調が無くなっていたことに気づきもしなかった。


「なんつーか……この人を知るには覚悟がいるんですわ。それこそ、自分の時間だとか、生活を半分かけるくらいの覚悟が。それでも……ここに来られますか?」


「覚悟?君がこの俺にそんな事を要求するのか、くだらない。俺を見くびるな!」


 篤史の声の抑揚が完全に怒り一色に変わり、今度は止まることなくすぐに洗面所まで入ってきた。

 そこにはやはり篤史の予想した中で、最も見たくなかった光景が広がっていた。


「……っ、可南!? 何してんだおい可南!! なんでこんな……救急車は」


「今呼んでます。意識はずっと無い、でも息も脈もちゃんとあって……あ、そうだ電話が繋がってて」


 龍の説明を聞くと同時に、篤史の脳裏に浮かぶ、以前資料室で聞いた可南の言葉。もしかして、可南はもうあの時に、こうなることを見越していた?


──「ずっとそのままでいて。篤史さんになら皆ちゃんと付いて行くよ」


 篤史の中に猛烈な怒りと焦燥が湧き上がる。(違う違う違う! 勘違いも甚だしい! 俺が俺のまま居られたのは君が居たからだ。君が居なかったら俺は……どうしてこんな事が分かってない? なぜ俺にさえ何も言わなかった? 何の為に、俺がここに……)


 衝撃と恐怖が怒りに変わり、篤史の思考を支配していた。しかし、ふとある場所が目についた。

 

「そこ見せてみろ。手をどかせ」


 篤史にそう言われ、龍は可南の首元からタオルを外す。傷口がみるみる滲み、細い筋を作るが噴き出す様子はない。 少なくとも、今すぐ命に関わる傷ではなさそうだと篤史は判断した。


 普段はチョーカーで見えないその場所に、今回のと重なって一回り大きい古傷があるのも場所が場所だけに気になったが、それよりもっと気がかりなのは……


「出血は少なくないが傷は致命傷じゃない。それなのに、これだけ周りで騒いでてどうして可南は目を覚まさない?」


「……あの、多分、酒と眠剤か安定剤を飲んでてそっちの方が効いてるんすよ」


 それを聞くと篤史は小さく舌打ちをしてリビングに向かう。ガタガタと何かを探しているらしく、歩きまわっては棚を開閉している音が聞こえてくる。

 こんな光景に初めて出くわしたのに、取り乱しもせず状況把握に努める篤史を見て、やはり敵わないのだと龍は思った。


 さっきは自分の方が可南の信頼があるとばかりに「覚悟がいる」なんて大口を叩いたが、目の前の赤一色の惨状が龍の思考力と冷静さを奪っていく。もう泣く事さえしていないその人を、龍はただ見ていた。


 誰よりも失いたくない人の冷えた体と白い頬が、言葉を発しない唇が、涙の乾きかけた目尻が、腕の中の彼のすべてが手の届かないところに消えてしまう予兆のようで怖かったのだ。


「龍!! 呆けるなしっかりしろ! 電話の指示を聞け!」


 リビングから飛んできた鋭い声が、龍の意識を現実へ引き戻した。

 耳鳴りに埋もれかけていた救急指令員の声に集中しようと、スマホを耳へ当て直す。


「すみません、はい……はい、呼吸はあります。脈も……ええ、そうです」


 受け答えをしながらも、可南の肩へ添えた手には無意識に力が入る。

 電話の向こうからは矢継ぎ早に質問が飛んできた。


『飲酒量や種類は分かりますか』


 龍はとたんに言葉に詰まった。


「酒は……」


 部屋を見回す余裕はなかった。目の前のその人を見るだけで精一杯だった。


 その一方で篤史は、リビング中の引き出しや棚を片端から開けていた。乱雑に探しているようで、その手つきには迷いがない。


「酒は分かった。薬も可能性があるものなら」


 キッチンには洗われたウォッカの瓶。続いてゴミ箱の中から、押し潰された薬のシートが数枚見つかった。


「龍、薬の名前は聞かれてないか?」


「え……あ、はい」


 ちょうどそのタイミングで救急指令員が尋ねてくる。


『薬の種類は分かりますか』


 龍は篤史から渡された薬袋と空の薬のシートを確認する。どちらにも見慣れないカタカナ並び、焦るほど文字が頭へ入ってこない。


「えっと……えっ、これは、どれを言えば」


 情けないほど龍の声は震えていた。篤史はそんな龍から静かにスマホを取り上げた。


「貸せ」


 そう短く告げ、そのまま耳へ当てる。


「もしもし代わりました。僕も本人の同僚です。処方薬の袋と、空のシートが手元にありますのでお伝えします」


 篤史は薬袋とシートに書かれた薬剤名を、ひとつひとつ確認しながら落ち着いた口調で読み上げていく。


「……はい。処方日は今月です。空のシートの方は――」


 指令員とのやり取りは途切れることなく続いていた。受話器の向こうへ情報を伝える声は驚くほど冷静だった。


 その横で、龍は自分が役割を失ったことに気付く。けれど、安堵の気持ちもわずかにあった。自分が今、下手に手を出して何か間違えれば、もう二度とこの人が戻らない気がしていた。


 さっきから自分の手が小刻みに震えているのも、どうすることも出来なかった。


「……あんな度数の酒でODなんて絶対するはず無いのに何で」


 ボソリと怒気の入り混じる声が聞こえ、龍は昔、可南から聞いた事を思い出す。


 可南は死にたいのではなく、生きたくてこうするのだと言っていた。自分には理解が出来なかったが、篤史になら理解出来るのだろうか。


「俺は前に一度、これと似た状況を見ました。その時は「生きたいからこうするしかない」と言ってて。意味、分かりますか」


「……」


 龍の言葉を聞き、篤史は厳しい表情のまま深く考え込んでしまった。その横顔に、龍が何か言葉を続けようとした時、遠くからサイレンの音が暴風雨の音に紛れて聞こえてきた。


 救急車が到着すると、篤史は可南に付き添い救急車へ乗り込んだ。龍はその場に残り、各所への連絡役を請け負ったのだった。


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