40話 白雨の向こう側
可南は別室で仕事を再開したが、画面の文字を目で追っていても頭には全く入ってこなかった。
何度カーソルを動かしても、脳裏にはさっきの龍の顔が浮かぶ。
(誰の事も信用してない、か。そうだったら、まだマシだったのに)
ここ数年で、自分は随分他人に気を許すようになっていた。無意識のうちにその存在を頼りにして、甘えてしまっていた。途切れた緊張感と縮まってしまった距離が、俺のガードを脆弱にしていたんだろう。
無自覚だった甘えを絶ち、物理的にも距離を取ることで拠り所を作らない。
そうすると、俺の脳が幻聴を捉える頻度が減ることに最近気がついた。
自分しかいないとなれば気力を燃やし尽くしてでも自力で立ち続けていないといけない、そんなスイッチが入るようだった。何も起こさず、誰の手も煩わせず過ごせるならばその方がいい。
そんな日々の中で篤史と龍の存在が悩みの種だった。いくら振り払っても、それぞれタイプの違うしたたかさで俺に手を差し伸べてくる。
二人のポジション的に関わりを減らすにも限界がある。そして何より、俺は人として二人が好きだった。だから、手を差し伸べられるたびにそれを無下に振り払って傷つけては、自らもダメージを負うという悪循環に陥っていた。
かと言って、その手を取ってしまえば自分が正常でいられない。中途半端に話して誰かの荷物を増やすようなことを、俺はもうしない。そんな自分には価値が無いから。
擦り減る神経も、痛む心も、だるさの抜けない身体も、自分の行いが返ってきている結果なのだから笑うしかなかった。
徐々に強くなる風が窓を揺らし、台風の接近を知らせる。社泊するには心身への負担が大きいと判断して俺は帰宅の準備を始めた。
◆◇◆◇
最寄りの駅で運よくタクシーを捕まえ家に着く頃には、もうほぼ暴風雨と言っていいくらいの雨風だった。
鍵を開けて家に入ると、部屋は暗く静まり返っていた。誰もいない部屋に安堵する自分がいる。
眠気のねの字も無かったが、こんな日は早く寝てしまえばいいんだと眠剤を半シート分手に取った。コップを取りに行くのも面倒で、そのままウォッカを口に運び、薬を流し込む。喉元と胃の辺りが焼けつく感覚にホッとした。
良く無い事だと分かっていても眠れないよりはずっといい。
そうして週末ならいいかと何も考えないまま薬と酒を追加する。この瞬間は少しでも早く寝てしまいたくて、それ以外のことは考えなくなっていた。
眠気が来るまで動画でも見ようと思いスマホを操作していると、一段と激しく窓に雨が叩きつけられガタガタと鳴った。音の大きさにビクリとして、施錠の確認をしに行くと窓の向こうに激しい雨で白む外が見えた。
(白い、雨……景色に紗がかかって。どこかで俺は、これを見た。……どこで?)
既視感に襲われ記憶を探っていると、やはり俺はまたあの声を拾い始めてしまった。
酒も薬も過剰に入ったこのタイミングだと、間違いなく向こう側へ堕ちてしまうと分かっていた。
でもそんなことさえもう、どうでもいいと思えた。
◆◇◆◇
もう沢山だ。
後どれだけこの苦しさと恐怖を超えればいいのか。
自分の存在を誰よりも否定しなければいけないこの時間に、終わりはあるのだろうか。
息の仕方も分からなくなって、頭の芯がじんわりと麻痺していくのが分かる。
この声を初めて聞いたのはいつだっただろう。幼い子どものような、どこかで聞いた……この声。
罪悪感に飲まれ始めたら、もう自分では引き返せない。意識を手放すまでの永遠を苦しみ、赦してくれと懇願する。痛みが無いと自分が何なのかさえ分からない。赤い色を見てまだ人なんだと心から安堵してその温かさに嗚咽を漏らす。
人を狂わすこの身に流れる穢れも罪も、少しずつ捨てては夜をしのぐ。
こんな夜をいつまで俺は……いつまでこんなことを。
もう沢山だ
もう沢山だ
もう
苦しくて──
──生きてここに居て下さいよ……可南。
いつか龍に言われた言葉が、俺の頭の中に響く。
(だって、龍。そんなこと言われても、ここにはもう俺しかいないのに、何の為に……?)
そうか。
苦しいのなら捨てきればいい。
昔、母が俺にしたように、大きな排出口を、開いて、流して、全部捨ててしまえばいい。
こうすればよかった。
これで眠れない夜が終わる。
普通の人のように明日を迎えて
生きることが出来る
これで
やっと
俺は赦される
救済は
ここにあった




