43話 見え始めるもの
可南が普段通り会話のできる状態まで回復したと聞いても、篤史はすぐに病室へは向かわなかった。
伝えたいことは一言二言では終わらない。今面と向かって話せば、可南の嫌がるだろう『小言』を並べ立ててしまうのは目に見えていた。
それが正論であってもなくても、回復したばかりの彼に長々とぶつける話ではなかったからだ。
連絡を受けてからさらに数日経ち、可南の体力も少しは戻っただろう頃合いを見計らって、篤史はようやく病院を訪れていた。
病室のドアを開けるその瞬間まで、篤史の中には怒りがあった。今日だけは上司と部下ではなく、一人の友人として諭そうと。それほどまでに腹が立っていた。
どんな理由であれ、過程であれ、自らを蔑ろにする今回の行為が許せなかった。
自分の価値を考えもせず、生存のためだと自らの命を削る手段を選ぶ。可南のその歪んだ行動に、篤史は底知れない憤りと、それ以上の恐ろしさを覚えていた。
しかし、ドアを開け可南本人を見た瞬間、篤史はそれまでの思考も憤りもすべて胸の内に仕舞ってしまった。ノックもドアの開閉音も、物体としてそこに在っただけのその人には聞こえていないようだった。
ベッドの上部を起こして座っており、確かに瞳は開いているのに何も見ていない。極端に少ないまばたきと、感情の無い表情に生気を感じず鳥肌が立った。彼のこんな顔は初めて見る。
一瞬入るのをためらったが、こうして突っ立っていても仕方ない。篤史はベッドサイドに近づいて、そっと声をかけた。
「可南」
思ったよりもゆっくりと顔が動き、その瞳が篤史を捉えた。
焦点が合うまで少し間が空く。
「……篤史、さん。心配かけ──」
言い終わらないうちに、篤史は左手の手のひらを可南に向けて突き出し、ちょうど中指の部分が彼の口の前に来る位置で止めた。驚いた可南が言葉を途中で切る。
「君が言わないといけないのは謝罪じゃない」
こちらを見る可南の口が閉じたので、突き出していた手をそのまま下に降ろして彼の手に触れた。その手はもうあの夜のように冷たくなく、自分と同じくらいの温度だった。
「良かった……」
横にあった椅子に座りながら、誰に向けるでもなく篤史はつぶやいていた。何かを確かめるように少しの間そうしていたが、すぐに沈黙は破られる。
「可南、先に君に言っておきたいことがある」
「うん。なに」
今度の返事は早かった。纏う雰囲気には、もう先程までの危うさも儚さも見られない。
この素早い体裁の整え方に、篤史の胸のなかで静かに警鐘が鳴り始める。可南は自分の頸部を自分で切るという、トリッキーな行動の説明も弁明もする気がなく、小首をかしげて人の話を待っていた。
異常なことを起こしておきながら、可南はそれが異常だと思っていない。それが分かってしまう篤史は、諦めの混ざったため息をつき、椅子の位置を直して座り直した。
そして、真っ直ぐに可南と視線を合わせる。
「この俺が転職も考えず、今の会社に居続けるのは君が居るからだ。君が居ないなら俺は留まらない。もっと融通のきく条件の良いところに行くだけなんだよ。だから、こんな中途半端な所で無責任に人に任せるな。俺に甘えず、自分で目指した所までは自分で責任を持て」
篤史が言い終わるやいなや可南はクスリと笑った。
「俺はきっと、篤史さんよりも篤史さんを知ってる。今のは半分本当で、もう半分は俺のための嘘だ。そういう所が俺は好きだよ」
「だったらこれも分かるはずだな。今の俺相手に話は逸らせない。俺は君のそういう所が唯一嫌いだ」
その真剣味を帯びた言葉に、可南は少し目を見開いて驚いたような顔をすると、気まずそうに目を伏せた。それからポツポツと話し出した言葉に、今度は冗談めいた雰囲気はなかった。
「……責任を放棄しようなんて思ってない。正直よく覚えてないんだ。いつもと同じはずだったのに、どうしてここまで大ごとになってるのか分からない。ただ、どうしたら生きていられるのか、どうしたら人でいられるのか、そんなことを……考えていただけだった」
話すというより、こぼれ落ちたようなその独白は、あまりにも拙く、そして重かった。「どうしたら人でいられるのか」という問い。それは裏を返せば、可南が自分自身を人以外のなにか、としてしか捉えられなくなっている証拠だった。
「可南は何のために俺を手元に置いてるんだ? 俺なら君とは違う視点からアプローチして君にフィードバックできる。だから置いてるんだろ。俺は友達でもある。仕事のことじゃなくたっていい、今話せることを全部話すんだ。このまま自分の感情に振り回されてばかりじゃ君は……」
「そんなどうでもいいこと。大丈夫、今まで通り仕事でミスはしない。篤史さんの言う通り、俺が普段からもっと上手くコントロール出来ればよかったんだ。それよりさ、なるべく早くフォローに戻れるようにするから、スケジュールは無理に詰めなくていいよ。急ぎの相談があれば電話してくれれば出られるし、あと珠希にも言ったけど──」
「可南」
篤史がはっきりとした口調で可南の話を遮った。その声は決して大きくないのに強く響く。
「もう忘れたのか? 話は逸らせないって言ったろ。俺は感情を抑えろとも、消せとも言ってない。まずするべきなのは君の話だ。大体その元々ある首の傷は何だ? どうして雨の日に倒れるほど心を乱される? 何が君をそこまで追い詰めてる? 全部どうでもよくない大事なことだ。今答えて」
絶対に逃さない。その意志を込めて、篤史は可南の薄紅色の瞳を正面から見据えた。
首元の傷。そして雨。それらの記憶が、彼の心身を内側から荒らしているのは明らかだった。それを暴くことは、篤史にとっても痛みを伴う作業だったが、今踏み込まなければ後悔する、そう確信していた。
「……どうしてそんなことをいちいち」
可南は心底不可解だと言わんばかりに眉根を寄せて、右に左にゆらゆらと首をひねったあと、ふっと篤史を見つめ返す。その顔からは、いつの間にか表情が消えていた。
「ねぇ篤史さん。自分とはかけ離れた環境にいる奴の、苦痛や恐怖を真剣に想像したことはある? 自分とは真逆の常識、道徳、善悪、倫理観、そういう世界について考えたことは? ただ奪われて、力づくで蹂躙されるだけの毎日に狂いそうになったことが、何回あるのかなぁ。命以外のすべてを諦めたのに、その命さえ理不尽に諦めさせられて死んだこと……貴方にはあるの?」
そのどれもが、あるわけなかった。一つ一つがあまりにも陰惨で現実離れしていた。穏やかな子守歌のように語られていたはずのその声が、なぜか悲鳴のように聞こえて篤史は息苦しさを覚える。
答えが返ってこないことを気にするでもなく可南は続けた。
「……知らないでいられるなら、その方がいいに決まってる」
最後の言葉には、諦めと拒絶が混ざっていた。
想像さえしたことのない世界については何も言えないが、その諦めと拒絶の感情になら反論ができる。篤史はもうひるまなかった。
「君が見てきたものも、見ているものも俺には分からない。だから聞いてるんだ。君には見えなくても、俺になら見えるものが必ずあるはずだから」
ぶつけられる熱量とは裏腹に、可南は無表情のままだった。
「それに、君はいつも俺に「もっと相手に寄り添え」って言うだろ?俺のヒアリングには柔軟さと体温がないって。合理性と効率を考えると、どうしてもそうなるわけだけど、そんな俺の精神面の心配なんて、それこそどうでもいい無駄なことだ」
感情に流されず、ただ事実と客観的なデータを分析する。そんな自分の合理性こそが、今ここでは必要だと篤史は信じて疑わなかった。
そしてベッドに手をつき、わずか前のめりの姿勢になるとグッと可南を深く見据えて続けた。
「俺と君は違う。だから君はあの日、俺を欲したんじゃないのか?」
顔面にぽっかりと開いた穴のようだった暗褐色の瞳が、意思を持ってわずかに揺らいだのを、篤史は見逃さなかった。




