38話 縮まらない距離
時期とはいえ近頃は豪雨が多く、雨音に影響されやすい可南の疲弊具合が増していっているのがよく分かる。
しかし、知ってて見ているから気付くのであって、何も知らなければ少しピリピリしているかな?という程度で、人とやり取りしている最中はそんな様子さえ見せなかった。
今週も再び台風が接近しており夜から暴風雨の予報だった。龍が帰る頃には、帰宅難民になりそうだからと社泊を決めた人を含めても社内には数人しか残っていなかった。
週末特に予定のなかった龍は、可南の様子を見がてらいっそ一緒に過ごせないかとお伺いを立てに可南の部屋に向かっていた。
好意はまだ明確には伝えていない。けれど、引き下がらないと公言してしまえばただ案じているフリをして大胆になれるものである。
◆◇◆◇
案の定、まだ可南も社長室に残っていた。
扉を二度ノックすると中から短い返事が聞こえる。龍は一拍置いてから静かにドアを開けた。
照明が半分落とされたオフィスとは違い、社長室はまだ明るい。デスクいっぱいに広げられた資料とノートPC。その画面を見つめる可南は、入ってきた龍へ一度だけふっと視線を向けると、すぐに何事もなかったようにモニターへ目を戻した。
この距離で、二人だけで向き合うのは久しぶりだった。
仕事中に顔を合わせることはあっても、それは業務連絡程度の短いやり取りばかり。こんなに近くでジッと可南の顔を見るのは何日ぶりだろうか。
龍は何を話しに来たのかも忘れ、その顔を見つめてしまう。以前と何も変わらないように見えるのに、どこか張り詰めた空気だけが消えない。視線はモニターに固定されたまま、こちらへ向こうとしなかった。
「用件は」
よく通る、聞き慣れた声だった。
感情の乗っていないその響きに、龍の頭の片隅でずっと燻っていた疑問がふっと浮かび上がる。その疑問は気付けば言葉へ形を変え、止める間もなく口をついて出てしまった。
「どうしてそう頑なになるんです」
(って、今聞くことじゃないのに俺はなんで)
龍は言った瞬間に後悔していた。
しかし、返ってきた可南の声は素っ気ないものだった。
「それは仕事に関係無いよね」
「い、いえ、あります。答えによっては私の作業効率が上がります」
言ってすぐに、(なんだそれは)と龍自身も思うくらい苦しい言い訳だった。
ところが、今回はある意味可南の興味を引けた悪くない言い訳だったようで、可南はようやく顔を上げ、呆れたように龍を見つめた。
「黒瀬さんのパフォーマンスは今でも十分すぎるくらい良い。そっちが出て行かないなら俺が出る」
そう言うなり椅子から立ち上がり、机の上のノートPCを閉じる。慣れた手つきでファイルを重ね、一つにまとめていく姿には一切迷いがなかった。
話を終わらせるつもりなのだと分かり、龍は慌てて言葉を重ねた。
「待って下さい! あの、そうじゃなくて。今日この後は……空いてませんか。こんな日ですから一人でいるより気が紛れると思うんですが」
荷物をまとめていた可南の手がぴたりと止まり、数秒置いてゆっくりと龍へ視線を向けた。珍しく眉間には皺が寄っている。
「意味が分からない」
可南は短く言い切ると荷物を抱え、そのまま龍の横を通り過ぎようとした。直後、不意に足を止める。
ただ静かな声だけが響いた。
「台風が来てるんでしょ? 仕事が終わったら速やかに帰宅を。僕は君の雑談に付き合っている暇は無い」
その冷ややかな言葉の意味を考えるより早く、龍の身体が動いた。気づけば手は伸び、可南の腕を掴んでいた。
可南は驚いたように目を見開いて振り返ったが、その表情はすぐに険しくなり敵意の混じった視線へと変わる。
「俺が……いつ雑談しました?」
「手を離せ」
それは龍が今まで聞いたことのない、低く押し殺したような声だった。しかし龍はその言葉に従わない。
今ここで手を離せば、この人はまた何も言わずに去ってしまう。また一人で耐えようとする。
それが分かっていたから、龍はますます指先に力を込めた。
「雑談なんかじゃない。俺は大事な事しか言ってないじゃないですか!」
「今すぐこの手を離せ!!」
鋭く張り上げられた声が社長室に響く。
それでも龍は離さなかった。
離したくなかった。
この数か月、話しかけてはかわされて、踏み込めば距離を置かれ、そのたびに胸へ積もってきたもどかしさと苛立ちが、とうとう堰を切ったように溢れ出した。
「最近様子が違うのは見ていれば分かる。どうしてそうやって何も言わないんです?! 頼るに値しないとでも?? 人には周りを頼れと言うくせに、貴方はいつだって誰のことも頼らない。本当は誰の事も信用してないんじゃないですか?! 貴方こそ……もっと周りの人間を信用するべきだ!」
龍の声はそこで止んだ。
その言葉が可南にはかなり堪えたようだった。
ついさっきまでの威嚇するような雰囲気は一変し、口を一文字に結んでともすれば泣き出しそうにも見える表情を浮かべた。
龍を見たまま一度口を開きかけたが、すぐにそれを止めて下を向いてしまった。
「……頼むから離せ」
その声は先ほどまでとは別人のように弱々しく、か細かった。ただ俯き、言い訳もせず懇願してくる姿に龍の良心が痛む。
こんな顔をさせたかったわけじゃない。
こんな声を聞きたかったわけでもない。
その思いが無意識に龍の手を緩ませた。
その一瞬の隙を逃すはずもなく、可南は素早く腕を振りほどくと、こちらを見ることもなくそのまま部屋を出て行ってしまった。
パタン、とドアが閉まる音が、やけに大きく耳へ響く。あとに残されたのは龍一人だった。
「何で……くそっ!!」
行き場のない苛立ちを拳に込めて、壁を殴りつけたい衝動に駆られる。このもどかしさも、虚しさも、一ミリだって相手には伝わらない。
それでも、どうして拒絶する側があんなに苦しそうな顔をするのかは、龍には分からなかった。




