37話 揺らぐ基盤
七月に入り、社内では少しずつ夏季休暇の予定を決める話題が増えてきていた。
細い金縁の眼鏡をツッと上げ直し、俺は夏季休暇の予定表を確認していた。
毎年この時期になると、可南が全体のスケジュールを見ながら俺や他のメンツの予定も聞き、自身の休暇の予定を組み始める。それがここ数年の恒例だった。
だから今年も、ただ普通にその日程の確認をするつもりで可南に話を切り出した。
「旭さんはどこで休み取るんです?不在日も確認したいので」
「まだ夏休みの予定はない。今年はレジャーも考えてないから各自で自由にして」
視線はモニターを見つめたまま、指はパチパチと一定のリズムを刻んでいた。
「あぁ、今年は時期をずらすんですね。でも近々に一回まとまった休暇を取った方が良いですよ。最近お疲れみたいですし」
最近の根の詰め方が気になっていた俺は、いつも通り可南に進言する。しかし、返ってきた答えは思ったよりも硬いものだった。
「いつもと変わらない」
「そうです?でも──」
「干渉が過ぎるな、桐生さんは」
冷水を浴びたように二の腕に鳥肌が立った。それは今まで一度も言われたことのない言葉だった。
「干渉? 干渉なんて……旭さん、僕の事で気に入らないことがあるなら具体的に仰って下さい」
「言われないと分からない?桐生さんはそんなに愚鈍じゃなかったはずだけど」
その人の薄紅色の瞳は、まだモニターに向けられていたままだった。青白い光に照らされている端正な顔は、いつになく冷たく見えた。
可南は俺が部屋に入ってから、一度もこちらを見ていなかった。その態度とさっきのセリフに少し苛立ちを覚える。
「分かりません。僕と貴方は別の人間ですから、言わなくても分かるなんて有り得ません。仕事の事なら予測も出来ますし先手を打つことも出来るでしょう。
でも、僕個人に対して貴方がいま何を考えているのかなんて、言われないと分かりません。貴方こそもう少し賢明な方だったはずですが」
普段なら自分が絶対にしない、売られた喧嘩を買うような反論。もうこの時点で、俺は何か違和感を覚え、動揺していた。
「……こんな問答は時間の無駄だ」
「旭さん」
「もう戻って」
「旭さん!」
そこまで呼んで、やっとこの部屋に入ってから初めて可南と目が合った。不快感なのか何なのか分からない居心地の悪い視線。こんな感覚は初めてだった。
「僕の目を見て話して下さい」
「もういい。戻って」
なぜこんな視線が自分に向けられているのか分からなかった。さっきまでは普通だった。態度が変わったのは、俺が彼を探るような発言をしてから。
何か理由がある、きっと何か。
「分かりました。でも……貴方は僕がここに居る意味を、本当に理解したうえで仰っているんですか」
言葉は確かに可南に届いてはいた。俺の目をジッと見て数秒後、また可南はPCに視線を戻した。パチパチと無機質なタイピングの音だけが静かに響き、会話の終わりを告げてくる。
もう一歩踏み込もうか。
すでに十分煙たがられているのだから、いっそもう少し食い下がってみてもいいのではないか?
この胸に渦巻く妙な居心地の悪さの正体が知りたかった。
そんなことを考えていると、俺が部屋を出て行かない事にしびれを切らしたのか、PCを見たまま可南が言う。
「今、俺に貴方は必要ない。下がれ」
仕事のミスを咎められた時よりも、謝罪の際クライアントから理不尽な罵声を浴びた時よりも俺はショックを受けた。
(必要ない? この人が言ったのか? 俺に? 俺が……必要ない??)
どうしてこんな事を言われているのか、理由を考えることを俺の脳は拒否していた。ついこの間まで俺にそのままでいいと笑ってくれていた人が、態度と言葉の両方で迷いもなく俺を拒絶してくる。
しかも怒りに任せて叩きつけるように言われたのではない。どうでもいい相槌を打つときのように、さらりと言われたことがまた堪えた。
「……分かりました。失礼します」
頭を下げた瞬間、グラグラと足元が揺らぐような錯覚を感じた。軽く一礼すると、俺は足早に部屋を出てしまった。
◆◇◆◇
「旭さん何も言って来ないなと思ったら……そうですか、今年は出かけないのか~。でもそんな事出来ますかね、あのレジャー好きな人が(笑)」
自分の部署に戻り「今年の夏のレジャーは各自で」という連絡事項を染井薫に伝えたら、のんびりとした声が返ってきて身体から少し力が抜けた。
どうやら俺はまだ可南に拒絶された余韻を引きずっていたらしい。
「今そんなに立て込んでないはずなんだけど、七月八月は休暇取らないみたいで。九月に取るのかもね」
それは予測というより、そうであって欲しいという願いの方が強かったかもしれない。
さっきの冷徹さは機嫌が悪かっただけ、休暇も後で日数をまとめて取りたいから今取らないだけ。そうやって自分が安心出来る理由に落とし込んで、何も変わったことは起こっていないと思い込みたかった。
「旭さんといると毎年色々予約も取ってくれるし、計画もびっちり立ててくれるから、夏のレジャーが大体網羅出来て楽だったんですけど今年は各自でかぁ~」
「そう言われてみれば僕もそうかも。ここ何年か自分でレジャーの計画立ててないような……?」
考えてみれば本当に薫の言う通りだった。
毎年みんながふんわりとした要望を出すだけで、それにマッチする旅行先も、レジャースポットも、可南がきっちりスケジュールを組んでくれていた。
自分も皆もそれが楽で、心地よくて任せきりだったなと初めて気づく。
「じゃあ俺車出すんで海とか行きません? 民宿今からでもどこか空いてるかな。あ、凪君も誘ってみよっと」
さらりと聞かれた質問に、俺は一瞬考えてしまい、返事が一拍遅れた。
「僕とでいいの?」
「何がすか?」
「せっかくの休暇なのに、僕の顔を見ないといけなくなるよ」
気づけば自然に聞いていた。
俺は自分の理屈っぽさも、融通の利かなさも自覚している。間違っていることは正さずにはいられないし、効率や合理を優先してときには情を捨てる。一部の者から影で疎まれているのも知っている。
仕事は出来ても、可南と違って人としての求心力のない自分を遊びに誘う理由が分からなかったのだ。
しかし、薫は不思議そうに首を傾げてから軽い口調で言った。
「毎年そうですよね? 毎年レジャーで顔つき合わせてますけど」
「あぁ、うん、まぁ……いいならいいんだ」
思わず笑ってしまった。
同じ島の部下である凪は、未だに自分に対して緊張し気を遣ってくるが、同じ部下でも薫はそうではないらしい。
俺に対し変に構えもしないし必要以上に気も遣わない。周囲へも気を遣いすぎない、それが彼の良さの一つだと俺は思う。
「はい。じゃあ日程決めましょうか!えーっと、」
薫の頭はもう旅行のことで一杯らしく、さっそくスマホで検索を始めた。俺にも意見を求めてくるので、画面を覗きながら時おり相槌を打つ。
そんな中でも俺の心の半分はまだあの社長室にあった。あの不可解な視線、必要ないという言葉、何度思い返してみてもどうしてそれが自分に向けられたのか分からない。
毎年どれだけ忙しくても、予定が立て込んでいても毎年1~2泊の旅行くらい無理やりどこかにねじ込んで来るのが可南だった。「彼に振り回されないから気兼ねなく羽を伸ばせる」
──俺には、とてもそうは思えなかった。




