35話 再会、深緑に溶ける嘘 前編
穏やかに晴れた休日の午後、俺と桜は都内の大型書店に来ていた。ここは本を愛する者たちにとっては文字通りの聖地だ。
しかし、今日自分たちはここに遊びに来たわけでも、趣味の本を探しに来たわけでもない。桜から「経費で購入できないか」と相談された書籍の実物を確認するための、いわば半分仕事の用事で来ていた。
早速お目当ての専門書コーナーへと足を運び、棚に並ぶ背表紙を二人で確認し始めた時、少し離れた通路から、店内全体に響き渡りそうなほど大きな声が飛んできた。
「カナ?!」
その名前に身体が反射的に動き、俺は声がした方を振り向いた。振り向いてから、自分の行動に(しまった)と思った。
声が聞こえたと同時に脳裏に浮かんだのは、高校時代の悪友――柳橋祐理の顔だった。
卒業以来、もう十年以上連絡を絶っていたはずなのに、その声のトーンも、やけに耳に残る独特な声の響きも、俺は何一つ忘れていなかった。
自分らしくもない動揺に手のひらにしっとりと汗がにじんでいく。しかし、完全に振り向いてしまった手前、今さら逃げ出す道すことも出来なかった。
「おおおお!! やっぱカナじゃん!」
大股でドカドカと歩み寄ってきたのは、記憶のままの、いや、記憶していた以上に騒がしい男だった。
艶のある銀髪をラフなハーフアップにまとめ、いたずらっぽい深緑の瞳をキラキラと輝かせている男。カジュアルスーツをラフに着たその姿は、相変わらず考えるより先に身体が動く、衝動的で無鉄砲な彼そのものだった。
隣にいた桜も、この偶然の再会にパチパチと目を瞬かせて驚いていた。高校1年生の時に柳橋と彼女はクラスが同じだったため、こちらも互いによく知った顔だった。
「え~、柳橋君? 久しぶりだねぇ! すごい髪伸びてる~❀」
「おぉ!誰かと思ったら桜じゃん、久し振りじゃね?こんなとこで会うなんてなぁ~!」
書店という公共の場を全く弁えない柳橋の声のボリュームに、可南は眉をひそめ小さくため息をついた。
「相変わらずうるさ……いや、元気そうだね」
「お前も変わんねーな、その言い方。カナ同級会全然来ねぇじゃん、俺ら待ってるのにぃ~」
「年末年始ばっかりで行けるわけないでしょ。忙し過ぎて30分でも時間があったら寝ていたい時期だよ」
なるべく早く会話を打ち切ろうと、話を膨らませないように答えていくが、柳橋はこっちの気持ちも知らずに、ずいずいと距離を詰め、あれこれ話を繋いでくる。
「会社立ち上げたんだろ?あ、一緒にやってんのって桜なの?」
「うん、立ち上げは私と、あと大学の同級生とね」
「すげぇよな、どっか違うと思ってたわ。こいつ無茶苦茶してない?」
「あはは、私からは何とも(笑)」
親しげに自分の頭越しに会話を弾ませる二人を見て、俺はこの後始末をどうするか考えていた。
嫌な予感がして、これ以上の馴れ合いは何としても避けたかった。この縁はとっくに切ったはずだったのにどうして今頃、こんな所で会ってしまったのか。
「柳橋、申し訳ないけど今日は俺ら仕事で来てるからそろそろいい?」
俺がやや強めの口調でそう言うと、柳橋は一瞬だけ目を細めた。しかし、怯むどころか、その瞳の奥が妙にギラついたように見えた。
「ん。桜、ちょっと3分カナ借りるわ」
「いいよぉ❀可南君、私本探しとくね」
「俺は物じゃないんだけど……何なの?」
桜がひらひらと手を振って少し離れた棚へと移動するのを見届けて、柳橋は一歩距離を詰めてきた。周囲の喧騒がふっと遠のいたような錯覚の中、柳橋の低い声が鼓膜に響く。
「あのさぁー、俺お前に何かしたか?」
「はぁ?」
「ずっと気のせいだと思ってたけど、今日のその態度で確信した。お前俺を避けてるよな? 何でだ? 卒業式の後から急に連絡取れなくなったのも、引っ越したの知らせなかったのも、うっかりとかじゃなかったんだろ」
確信を突いた柳橋の言葉は鋭く、そしてどこか傷ついたような痛みが含まれていた。当時と変わらないこの深緑の瞳を見ていると、本当に今、自分が大人なのかどうかが分からなくなりそうだった。
俺はなんとなく目をそらし、さっき桜が消えて行った棚の方を見ながら答える。
「何かと思ったら……態度はこれが普通だし、別に柳橋を避けてるわけじゃない。たまたまそうなっただけだ。もういい? お前と遊んでる暇はないんだけど」
「しかもそれ!何で名字呼びなんだよ」
あからさまに不機嫌になる柳橋に、俺はあくまで淡々と返事を返していく。ここで強く逆らったり、論破しようとする方が面倒なことになると経験則から十分理解していた。
「名前呼ぶなって事?」
「ちげぇよ!前みたいに普通に呼べ」
「覚えてないよそんなの」
「お前が覚えてないわけ無いだろ。だってあのあだ名は……いや、それより本当に俺が何かして、お前が怒ってるとか俺を嫌ってるとかじゃないんだな」
「心当たりでもあるの?」
「ねーよ!?だから聞いてんだろ!」
「嫌いとかじゃないし、別に怒ってもいない」
その言葉に嘘はなかった。こいつを嫌う理由なんてどこにもない。むしろ嫌いじゃなかったから、あの時縁を切るべきだと思った。
柳橋は訝しげな顔をしてはいたが、一旦は納得の姿勢を見せた。
「本当かよ……まぁいいや。それよりお前lineは?電話でもいいし教えろよ。またみんなで遊び行かね?」
「使わないからいい」
「せっかく会ったんだし使わなくても電話番号くらい聞いてもいいだろ。集まりある時とかも便利じゃん」
「お前に連絡先教えると絶対ロクなことにならない。同級会系の連絡は他から来るからいい」
ここまで分かりやすく拒絶すれば、さすがの柳橋も一瞬言葉を詰まらせる。
しかし、これぐらいで「はい、そうですか」と去っていく男でもないのは承知していた。案の定、柳橋はさらに食い下がってきた。
「なぁ……俺は今でもお前をダチだと思ってる。まぁアクシデントも結構多かったが気も合ったし、お前といると楽しかった。ずっと笑ってバカなことしてられると思ってた。でも……俺だけだったのか?カナは違った?」
「……昔は俺もそうだった。でもそれだけだ。お前に付き合う暇な時間もないし、大体何年経ったと思ってるの? じゃ、桜が待ってるから行──?!」
その先は、続けられなかった。
相変わらずこの男は馬鹿じゃないのかと思った。
桜のところへ向かおうと二歩歩いてすぐ、右の二の腕を奴にグッと引かれバランスを崩しそうになったと思ったら、いつのまにか柳橋の正面に引き寄せられていた。流れるようにスッと左脇に奴の力強い腕が差し込まれ、俺は柳橋に両手で抱えられるような状態になる。
なんとか転倒は免れたが、これは一体どういうことなのか。
こいつは昔から人を荷物のように扱ってくる。すぐに人を抱えて運ぶ。今の半分抱えられたような状態も懐かしい感覚ではあったが、今ここで、この行動に出る意味が分からない。
すぐ上にあった柳橋の顔を見上げ文句を言おうとした時、
「お前なんか変じゃね?昔より軽い気がするし、ちゃんと食ってんの?」
「……」
本当にこういう奴だった。本当に何も変わっていない。無神経で無遠慮で図々しく、当たり前のような顔をして人の内側を土足で踏み荒らしてくる。
これ以上ここにいれば、自分の何かが崩れてしまいそうな気がした。
「これは……この歳になって公衆の面前で堂々とやることじゃない。俺のメンツと社会的信用に関わる重要事項だ。お前はそれを分かってて嫌がらせでやってる。そういう認識でいいのか」
柳橋は変わっていなくても、俺は昔とは違う。
いつまでもこいつの予測不能で衝動的な行動に飲まれているわけには行かない。俺が本気の不快感を滲ませると、意外なことに柳橋は目をキョロキョロと泳がせてすぐに手を離した。
「悪い。つい昔のノリで。……そうだよな、お前こんなんでも社長だもんな。……嫌がらせとかじゃない。悪かった」
初めてあっさりと引き下がったその姿を見て、柳橋も少しは変わったのかもしれないと思った。
それは成長とも言える変化に見えて素直に感心した。かといって、これ以上話を続ける気にはなれない。
「それならいい。もう戻るから、じゃあね」
「あ、でも電話──」
「俺は遊びに来てるんじゃない。仕事で来てる」
「……」
俺はもう柳橋とは目を合わせず、そそくさと桜が待つ場所へと向かった。
――その後ろ姿を、柳橋がじっと睨みつけるように見つめていたことなんて、俺は全く気づいていなかった。




