【回想・龍】色づく世界
重苦しい沈黙の満ちた社長室では、二人の男が向き合っていた。
一人はデスクに座る、見た目だけで言えば学生ともいえる若く小柄な青年。中性的な顔立ちの中で存在感を放つ薄紅の瞳は、静かに前方に向けられていた。金色に透ける髪は午後の日差しを反射して艷やかに光っている。
もう一人は、デスクの正面に直立不動で立ち青年を見つめる大柄な男。薄褐色の肌に青みがかった無造作ヘア、顎ヒゲは綺麗に整えられていたが、目つきの鋭さと合わせると無骨で野性的な印象を受ける。
先に動きを見せたのは大柄な男の方だった。
「今回のシステムバグの件、取引先に多大なご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。プロジェクトの引き継ぎ仕様書は早急にまとめますので、退職の手続きを……」
入社2年目を迎える少し前、初めて大手取引先の大規模案件を任されていたはずの黒瀬龍は、プロジェクト半ばにも関わらず社長室で深々と頭を下げ退職の伺いを立てていた。
途中まで順調に進んでいたはずの案件で大バグが発生し、納期が完全に破綻してしまったのである。
原因は、大手取引先側の担当者が仕様変更の連絡を忘れていたこと。しかし、その担当者は自分のミスを隠すため、「黒瀬の威圧的な態度に萎縮して連絡ができなかった」「向こうの担当が指示を無視して勝手に進めた」と嘘の報告を上に上げ、全責任を龍に擦り付けてきたのだ。
社内でも、龍の強面な見た目や、積極的に周囲と交流しないスタンスのせいで「黒瀬ならやりかねない」と厄介者扱いする空気がすでに出来上がりつつあった。
「退職の手続きの前に、まず君から直接話を聞きたい。先方の担当者とのやり取り、順を追って説明してくれる? 記録が残っているなら、ある分だけでいいからそれも全部見せて欲しい」
もう各所から「黒瀬のミス」という類の報告書が届いているはずなのに、デスクに座る若き社長──旭可南は、開口一番にそう言った。
ただ静かで、それでいて圧の強い薄紅の瞳に捕らえられ、龍は一瞬言葉に詰まった。
高身長でガッチリとした体つき。目つきも鋭い龍は、昔から何もしていなくても人に怯えられたり避けられたりするのが日常だった。道ですれ違っただけであらぬ疑いをかけられ、難癖をつけられる。職質にあうのも珍しくなく、そのたびに弁解するのにも疲れて、もうとっくに自分自身を諦めていた。
その人は疑うでも怒るでもなく、ただ知りたいと真っ直ぐな言葉を投げかけて来た。龍の胸の奥がギュッと締め付けられたように苦しくなる。でもそれは期待だった。嬉しかった。
(たとえこれが会社を丸く収めるための、ただのパフォーマンスだったとしても……)
詳細を話したとして言い訳がましく聞こえないか。自分一人がここで真実を訴えて、果たして何になるのか。この時間に意味はあるのだろうか──
そんな疑問を抱えながらも、時折可南から挟まれる質問に答え、ログやメールの履歴など証拠になる記録をすべて開示する。それと並行して、龍はこれから下されるであろう懲戒処分の分類を頭の中で淡々と箇条書きにしていった。
最悪のケースを想定しておけば必要以上に傷つかずに済む。他人に期待しない、気を許さない、油断しない。そうやって壁を作って過ごしてきた。自分を守れるのは自分だけだったから。
一通り話を聞き終え、思考にふけっていた可南は龍の目を真っ直ぐに見上げた。瞳のさらにその奥の深い所まで探られているような不思議な感覚に陥る。
「分かった。君を信じる」
「……え?」
あまりにもあっさりと告げられた言葉に、龍の思考が停止した。可南はふっと口元を緩め、どこか誇らしげに胸を張る。
「こんなんでも一応社長だしね。僕は僕のやり方で社員を守るよ」
「……はい? あの、そんな簡単に決めていいんですか? 相手は大手の元請けですよ、私を庇えば会社を巻き込むことに──」
「いい。僕が決めた。黒瀬さんは明日からとりあえずBチームの応援に回ってて。裏での段取りがいろいろあるからさ」
(なんでこの人は、こんな面倒事に自ら首を突っ込んで表に出ていくんだ……? あれ、そういえば俺の処分は?)
「えっと、すみません、それで……私の処分はどうなるんでしょうか」
「……君さ、いま僕の話聞いてた? 君がうちを辞めたいってこと?」
「いえ、そうじゃありませんけど! でも……お咎め無しじゃ社内からも色々言われますよ」
デスクに手をつき前のめりに訴える龍を見て、可南は小さくため息をついた。そして呆れたように、でも優しく微笑んだ。
「君のその、自分をすぐ切り捨てる思考が問題だ。君が思うよりずっと君には価値があるし、現場のメンバーからの信頼もある。もう少し、僕らのことも信用してみたら?」
(『信用』って、何だ。「信用して」「信用してる」その言葉は周到な包囲網で、破滅への誘導でしかない。
目の前のこの人は、社会的地位も金も整った容姿も全部持ってる。何の苦労も知らない成功者、勝ち組。ぬるく綺麗な世界しか知らないから、そんな綺麗事を綺麗なものとして使う。
結局他人に期待したら……最後には切り捨てられるのに)
龍の胸中は冷ややかな諦めで満ちていた。おめでたい綺麗事を吐く可南に呆れ、いっそこの人が自分の件で初めて辛酸をなめればいいとさえ考えていた。
しかし、可南はその頑なな拒絶を察知したかのように、楽しげに笑って立ち上がるとデスクに手をついて、龍の顔を真正面から見た。
顔と顔の距離は20センチも開いていない。
その距離感に一瞬怯んだ龍を追って、可南はさらに顔を寄せると白と薄紅のコントラストが美しい瞳をスッと細めた。
「確かに、自分を守るのは自分だけっていうのも悪くはない。けど……僕にも参加させてよ。ね? 龍さん。必ず、僕が力になる」
言われた瞬間、龍は全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
表面上は、可南に逆らうようなことも、非難するようなことも言っていなかった。態度にだって出していない。それなのに龍の拒絶を読み取った上で、可南は土足で、けれど温かな光として人の心の奥に入り込もうとして来る。
何かが自分の感情を激しく揺さぶってくるのを感じながら、龍は一言「はい」とだけ言って社長室を後にした。
龍の背中を見送りながら、可南はすでに次の一手を考え始めていた。
◆◇◆◇
それからすぐ、事態は動き出す。
可南は自ら取引先へと足を運び、龍の潔白を示す通信ログやメール、打ち合わせ記録など複数の証拠となる記録を役員層に提示した。
さらに、営業チームや開発チームを巻き込みながら信頼回復へ向けた対応を進め、今回の遅れを完全にカバーし、想定以上の利益を生む新たな追加コンテンツを開発して提供してみせたのだ。
その後、数か月にわたりシステム調整と追加開発が続き、取引先からの評価は徐々に好転していった。
3ヶ月が過ぎる頃には、社内の噂もすっかり消え失せ、まるで最初から何も無かったかのように穏やかな日常に戻っていた。
そして今日、龍は再び社長室へと呼び出されている。
「私の思慮と確認が足らず、多大なご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。これからは仕事で必ずこの恩を償います」
謝罪の手本のように几帳面に腰を折り頭を下げる龍の正面で、デスクの椅子に座っていた可南はいつも通りに笑っていた。徹夜続きが響いているのか、ほんの少し疲れた雰囲気も混じっている。
「期待してる。って言っても、こっちは実際思ったよりシステム調整に長引いちゃったんだけど(苦笑)でも大丈夫だったでしょ」
「はい。……あの、失礼な質問なのは分かってるんですけど、ひとつ聞いていいですか」
「何?」
「最初に取引先からクレームが来て、周囲の噂を聞いて……少しも私を疑わなかったんですか?」
「んー……『全く疑わなかった』は嘘になる。信用と盲信は別物だ。けど、僕は日頃の君を知っていたから、信用に足りる根拠があった。人を見る目はあるつもりだし、そういう商売人の天性の勘っていうか、才能が無かったら会社経営なんてやってられないよ」
つまり可南は、自分にはその才能があると暗に言っていた。そのあまりにも自信に満ちた言葉に、龍の口元から自然と笑みがこぼれた。
「……ふふっ。本当に変わった……いや、凄い人なんですね、貴方は」
「あ!」
突然、口を『あ』の形にしたまま、可南がピタリと動きを止めた。不思議に思った龍が声をかける。
「どうしました?」
「ん、ああ……だって」
可南は少しきまり悪そうに視線を泳がせた後、ほんのり頬を紅潮させ、まるで真夏に咲き誇る向日葵のように眩しすぎる笑顔を龍に向けて言った。
「そんないい顔で笑ってくれるってことは、君の何かが変わってきているってことでしょ? それが、俺はすごく嬉しい。改めて、これからもよろしく。黒瀬さん」
(っ! ……これは駄目だ。不意打ちだ)
龍の胸の中で、ドッと得体の知れない巨大なものが膨らんだ。
熱くて、切ない。痼のようでいて、小さな台風のような掴めそうで掴めない何か。この感情の名前を、龍は知っていた。知っていたが──この人に向けるべきではない、決して超えてはならない一線なのも分っていた。
押し寄せる恋情の波に、必死で無視を決め込んで、龍はいつもの無愛想な表情を作った。
「何を仰っているのかよく分かりませんが」
「あれっ、そう?まぁいきなり信用0%が100%になるとは思ってないけど。友好度の進捗20~30%になったくらいの手応えはあったんだけどなぁ」
「本当に、全然意味が分かりません」
「えぇ? おかしいな?(笑)」
今までもずっと社会の中で人と関わってきたはずなのに、まるで何年かぶりに本当の意味で「人と会話した」ような気がしていた。
くすんでいた龍の世界に、急に鮮やかな色彩が流れ込んでいく。気がついてしまったこの感情は、もう無かったことには出来ない。
もう一度……もう一度だけ、人を。この人を信じてみようと思った。
ただ静かに、誰にも知られずに、この日から龍の胸の奥に何かが募っていった。




