34話 特別じゃなくても
「何に対しての謝罪? 何かあったの?」
人通りの少なくなった廊下で、龍は医務室から出てくるところだった可南をつかまえて、唐突に謝罪の言葉を放っていた。見当がつかないというように困惑した顔で、可南は龍の顔を見上げる。
その視線を受け止めながら龍は拳を握りしめた。
「いえ、何もしてないんです。何かしたいなんて偉そうなことを言っておきながら……何も。だから」
「はぁ……黒瀬さんはどうしていつも。俺の事に勝手に責任を感じられても迷惑だ。何も頼んでないから期待もしていない。だから謝罪も必要ないんだよ。そもそもここで話すことでもない」
突き放すような冷たい言葉が胸に突き刺さる。もはや龍は溢れ出す感情を抑えることができなかった。
「俺は心配さえしちゃいけませんか? 分かってますよ、俺なんか貴方にとったら所詮その他大勢の中の一人でしょう? 特別でも何でもない奴に無神経に踏み込まれたくないって、そんな事も分かってる。それでも俺は……何もなかった事になんか出来ない!」
(そうだ。悔しいくらい分かってる。俺にとっては特別でも、この人にとって俺は特別じゃない。そういう存在をこの人は必要としていない。でも、それをどうこう言う権利は俺に無いのに、これじゃ特別になりたいと言っているようなものじゃないか)
情けなさと悔しさで、瞼が熱くなるのを感じた。
「だから、ここでする話じゃない。声を荒げるな。迷惑は言い過ぎたけど俺はただ──」
「いえ。俺が、出過ぎたことを言いました。すみません、失礼します」
これ以上ここに居たら、言わなくてもいい事まで口から飛び出してしまいそうだった。
この人といると調子が狂い、感情の振幅が大きくなる。それをどうにも出来ない自分が情けなかった。
背を向け立ち去ろうとした龍だったが、突如可南がその腕を強くつかんだ。何の説明もなく、近くにある部屋のドアを開けると「入れ」とばかりに背中を押してくる。
大人と子どもほどの体格差、逆らおうと思えば出来たのだが、されるがままに龍は従った。すると可南も続いて滑り込むように部屋に入ってきてピシャリとドアを閉めた。
「そういう顔を人にさせたくない。嫌なんだよ。自分の事で誰かが無理をするのも苦労するのも嫌だ。誰の荷物にも負担にもなりたくないのに……上手くいかないな」
一息ついて龍の方に向き直ったその人からは、さっきまでの冷徹な雰囲気も頑なさも消え失せていて、少しだけ幼く見えた。
「それに本当は、謝らないといけないのは俺だよね。今もその前も……多分龍さんにはもっと前から迷惑をかけてる。君は勘もいいし、その優しい性格のせいで見て見ぬ振りも出来ないたちなのに俺が口を滑らせたから」
その言葉を聞いた瞬間、龍の口からいっそ不敬とも言える本音が漏れ出していた。
「失礼ですけど、たかが一人間がそう思うこと自体おこがましいんじゃないですか? 誰にも迷惑かけずに生きてる人なんて居ませんよ」
伏せられていた可南の薄紅色の瞳が龍を見あげ、わずかに見開かれた。さらに龍は続ける。
「自分いっつも無茶苦茶するくせに迷惑かけたくないなんてどの口が言うんです?? 強かったり弱かったり、敏感だったり鈍感だったりほんっとよく分かりませんね貴方は」
最近立ち振る舞いが変わり、必要以上に人を寄せ付けなかった可南の、この時の雰囲気に龍はどこか懐かしさを感じていた。
ジッと見上げてくる少年のような薄紅色の瞳も、少し高い柔らかい声色も、ついこの前まで当たり前に隣にあったものだったのに。一体、何がこの人を頑なにさせてしまうんだろうか。
「俺は貴方が笑ってりゃいいんですよ。そのための過程なんて迷惑でも何でもない。見て見ぬ振りが出来ないんじゃない、していないだけなんです。好きで……こうしてる。それだけです」
「面倒事とか苦労が好き……? 苦労人気質なの? お人好しが過ぎるよね。どうしてそこまで」
心底不思議そうに首を傾げるその人の疑問を聞いて、龍は思わず口角を少し上げ懐かしそうに言う。
「もう貴方は覚えてないかもしれませんけど……昔、それと同じことを俺は貴方に尋ねました。そしたら、貴方は俺を……まだ入って間もなかった俺なんかを『守ると決めたからだ』と言った。
入ってすぐ問題起こすような部下なんて切ればいいだけだったのに、しなかった。今思い出しても恥ずかしいっすね。いい年の大人が臭いセリフを、こんな見るからにガラの悪い奴に向って真顔で。しかもそれで実際実行してみせた。まぁそれだけって訳じゃないですけど……俺も同じことを決めただけです」
「それが俺の仕事だから。そんな事で義理なんか感じなくてもいい」
「そういう事じゃ……まぁとにかく、今みたいにそうやってもっと話して下さいよ。そんな小っさい体に色々詰め込んでるとそのうち身動き取れなくなりますよ?」
少しだけからかうように、かつての距離感を取り戻したくて掛けた言葉だったのだが、可南の反応は予想外のところへ飛んだ。
「小さ……いや俺は気にしてないけど、気にしてないけどね? その言い方は人によってはセクハラ扱いの人事労務案件だから気を付け──」
「すんませんっ!」
秒での謝罪。ガタイのいい武骨な男が縮こまって勢いよく頭を下げた。
「秒で謝るなら言わなきゃいいのに」
「「……」」
顔を見合わせて数秒後、どちらともなくクスクスと笑い合う。
龍の方も、本当は話したいことも聞き出したいことも山ほどあった。可南の過去のこと、急に周囲と距離を取るようになった理由、次々に湧く疑問はもう喉元まで来ていた。
けれどこの時は、この穏やかな時間がもっと長く続けばいいと思う気持ちの方が勝ってしまった。
こうやって自然に笑うこの人を目の前で見るのは、何だかとても久しぶりな気がしたから。




