33話 優先順位
オフィスの一角で龍は篤史につかまっていた。
先ほど可南が休養室へ連れて行かれた経緯を淡々と聞かされた龍は、いつもの無愛想に見える表情の下で激しく動揺していた。
可南に出来ることをすると宣言したはずなのに、結局のところ自分はあれから何も出来ていない。それどころか、最近ではよくわからないまま距離を置かれ、話しかけることすらほとんど出来ていなかった。
その人は、今まで陰でどんなに調子が崩れていても、職場では普通に仕事を捌き続けていた。気が張っているはずの職場で、そんな状態になることがどれほどの緊急事態か。龍の脳内ではうるさいくらいに警鐘が鳴り響いていた。
何かが変わってきている。
これまでかろうじて保たれていた平穏が、もはや見せかけの体裁さえ保てず静かに崩れ始めているのを、龍は肌で感じていた。
(幻聴も過呼吸も自傷も精神的なものだ。あの人の何かを変えない限り起こり続ける。いくら元が強くても、もう心も身体も限界なんじゃないのか……)
胸の奥で渦巻く焦燥感が龍の背中を押す。これまで多忙という理由で保留にし続けていたことを今すぐ進めるべきだと判断した。
プライドも割り切れない感情もすべて捨てて、可南についての情報を全て篤史に話し、協力を仰ぐことにしたのだ。
可南が強い雨音に対して異常なまでの過剰反応を示し、今日のような発作を起こすこと。
これはおそらくきっかけがあるはずだが、本人に心当たりが全くないため周囲から情報を集めていること。
そしてある程度まで過去を遡ることはできたものの、そこで完全に情報が途絶えてしまったことなど、一連の内容を一気に篤史へ伝えた。
「それで転校前に住んでいた市までは分かったんですけど、ここから学校の絞り込みが出来なくて。可南さんも前の小学校の名前を覚えてないみたいだったのでもうどうにも。何かいい案ありませんか?」
すがるような後輩の視線を受け止め、篤史は眼鏡の奥の瞳をわずかに細めた。まるで品定めをするように龍の顔を数秒見つめる。
「ふぅん……この件は僕が預かろう。ネットで軽く話す程度の知り合いなら腐るほど居るから聞いてみるよ。まぁ世代がちょっと違うんだけど、地域は近い奴らがいる。ツテを辿れる可能性は高い。それに今はSNSもあるし……まぁせめて学校は絞りたいよな」
その言葉に、龍の肩から少しだけ力が抜ける。篤史は多趣味のせいか、その面倒見の良さの良さのせいか、とにかく交友関係が広い男だった。情報網の広さという点において、自分の周りではこの男の右に出る者はいない。
「なんというか……ありがとうございます。俺の方もまた改めて友人さんらに当たってみます」
生真面目に頭を下げた龍に対し、篤史はふっと、どこか冷めた笑みを浮かべた。
「君の為じゃない。僕も丁度気になってたから。出来ればもっと早く言ってくれたら良かったのに。でも龍さん変わったな。何でも一人で背負い込んで一人でこなしてたのに……君が『わざわざ』僕を頼るなんてね」
わざわざ、という言葉に何か別のニュアンスが混じる。篤史の含みのある言い方に龍は多少の悪意を感じた。
でも――。
本当はもっと早く彼を頼ることだって出来たのだ。得られた情報をすぐに共有して相談していれば、それこそ最短ルートでここに至れたはずだった。
それが出来なかったのは、本当は多忙さのせいでも責任感からでもない。
ただ、この目の前で涼しい顔をしている男にちっぽけな対抗心と嫉妬心を燃やしていただけ。
篤史が可南に対して、上司や友人に向ける以上の深い情を持って接していることを龍は知っていた。そして可南もまた、篤史を信頼してよく使い、彼の忠告なら反論もせず聞いた。
社内での立場や言葉遣いに上下があったとしても、この二人の根底には自分が踏み込めない「対等さ」が存在しているのを、龍は嫌というほど感じていたのだ。
だから、自分だけが知っている情報を教えたくなかった。小さな優越感と自尊心を持ち続けていたかった。男の嫉妬ほど、醜くて見苦しいものはない。
篤史の放ったあの静かな悪意は、可南の危機を前にしてなお、そんなくだらない自尊心を最優先してしまった俺自身の身勝手さと愚かさへ向けられているんだと、龍は痛烈に理解していた。




