32話 崩壊の音色(旭可南視点)
会議室の窓に打ち付ける雨が激しさを増し、俺はますます憂鬱に沈んでいく。毎年のこととはいえ、この梅雨時は気が重い。
すぐ横で大口を開けている深い闇に堕ちてしまわないよう、薄氷の上をジリジリと進む。そんな綱渡りのような日々が続いていた。
少し前から、雨の強弱に関わらずあの声の幻聴が聞こえるようになってしまい、俺の神経は大分疲弊していた。また誰かを巻き込んでしまわないよう極力表に出ないようにしていたが、立場上どうしても外せない予定はある。
先週、処方薬を強いものに変えてからは多少の倦怠感と思考の鈍りこそ出たものの、その効果は上々だった。今日も目の前の会議に集中していれば何も問題ない。そのはずだった。
工程は滞りなく終わり、各々が足早に部署へと戻っていく。自分も人の波に乗り廊下へ向かいながら、珠希と次の予定について打ち合わせをしていると背後から篤史に声をかけられた。
まだ何か確認事項があったかと思い、俺は再び会議室の奥へと引き返す。人が捌けて二人きりになった部屋は、さっきまでの人の気配も雑音も消え去って、ただ雨音だけがザアザアと響いていた。
「すみません、今の件じゃなくて先日指示を頂いていた件で」
「あぁ、桐生さんの……先方と折り合いついた?」
「それがやっぱりこの内容だとコストが」
──か……く…。
篤史の言葉の合間に、不明瞭なノイズが混ざった。いつもなら遠い空耳程度で終わるはずなのに、脳がその声を認識した瞬間、身体が過剰に反応を始める。
自分の意思に関係なくドクドクと鼓動が速まり、見えない手で胸を鷲掴みされたように息がしづらくなった。
何とかここだけは乗り切ろうと、必死に篤史との会話に意識を集中させる。けれど、段々近づいてくるあの声をどうしても拾ってしまう。もうこんなに近くで呼ばれているというのに、どうして他の人間には聞こえないのだろう。
「……そしたらもう一度パッケージ使えないか提案して、どうしても駄目だったらそれの追加修正だけで……何とか近い形に……」
──かな……く
すぐ近くだった。
どこだ、どこに。これは……また、後ろから。
──可南君!
そう、後ろだ。俺は、振り向いたのか。それとも、
「何か?」
「……いや。何だっけ、そう、出来る限り希望に……添える……ように」
指先から手足の先へと、冷たい痺れがじわじわと広がっていく。視界は急速に狭まり白んでいった。世界がもう、こんなにも遠い。
さっきから耳元でうるさく響いていた不規則な雑音が、自分の呼吸音だと気づいた頃にはもう上も下もわからなくなっていた。
ただひとつ、頭の中に響き続けるあの声に対して、罪悪感と悔恨の情だけが激しく募っていく。
こうして苦痛と恐怖に怯えながらでも、正気を保って聴き続ければ、いつかあの声の正体に辿り着けるのだろうか。
そんなに呼ぶのなら、どうして俺を連れていかない?どうしてこのまま狂わせてくれない?
この中身も外身も、もうとっくに壊れているのに。
どうして俺だけがここに……俺だけ。
……「だけ」?
「だけ」ってなんだ?
もとは、俺だけじゃなかった?
誰かが、居た。
俺だけが生き延びたのは、首を裂かれたあの時と……あと……あと、は──。
──可南君!!
ひと際大きな声が脳を内側から震わせた。それと同時に胸を貫いた痛哭の念に耐えきれず、俺の視界のすべてが暗転した。
思考も感覚もすべてを冷たい闇に溶かして、俺はまた、真実に辿り着けないまま意識を手放してしまった。




