30話 崩壊の音色 前編
午後一の会議が終わり、各々が頭を下げて退出していく。静けさが戻り始めた会議室の片隅で、桐生篤史は部屋を出ようとしていた旭可南の背中に声をかけた。
可南は隣にいた木村と二言、三言短い言葉を交わすと、すぐに篤史の方へと歩み寄ってくる。
「すみません、今の議題の件じゃなくて先日指示を頂いていた件なのですが」
「あぁ、桐生さんの。先方と折り合いはついた?」
「それが、やっぱりこの内容だとコスト面でどうしても折り合いがつかなくて」
「……そしたら、もう一度既存のパッケージを使えないか提案してみて。どうしても駄目だったら、それの追加修正だけで……何とか、近い形に……」
「そうですよね。分かりました。……旭さん?」
指示を出していた可南の声が妙な切れ方をした。
不審に思った篤史が横を見ると、可南は手元の書類ではなく、どこか少し先の空間を凝視していた。
何かを思い出そうとしているような、もしくは記憶を探っているような、そんな不思議な様子だった。
「何か?」
「いや。何だっけ、そう、出来る限り希望に……添える、ように……っ」
ただ事務的な会話をしているだけだというのに、可南の呼吸はまるでジョギングをした直後のように乱れ始めていた。
異変を察知した篤史が思わず可南の肩を掴み、その顔を覗き込もうとする。ほんの少し力を加えただけだったが、可南の体はその重みにさえ耐えられず、息苦しそうに喘ぎながらその場へ膝を突き屈み込んでしまった。
◆◇◆◇
「!? 旭さん!?」
篤史の鋭い声が室内に響く。
早く浅い異常な呼吸。以前、資料室で目撃したあの過呼吸と同じ症状。けれど、その引きつり方は激しく、あの時とは比べものにならないほどだった。
「どうし……!?」
会議室の外で篤史を待っていた染井薫が、室内の物音に気づいて勢いよく入ってきた。しかし目の前の光景に足を止め完全に硬直する。
そこへ、すぐさま怒号に近い篤史の指示が飛んだ。
「薫さん、いいからドアを閉めてそこに立ってろ! ──可南、聞こえるか? 落ち着いて、ちゃんと息を吐くんだ。大丈夫だから」
以前の不調以来、篤史が個人的に調べて頭に入れていた過呼吸の対処法を必死に試みる。
しかし、どんなに声をかけ落ち着かせようとしても、今の可南の耳には届いていないようだった。呼吸が整う気配はなく、肺を抉るような荒い呼吸のまま可南は床へと倒れ込んだ。
「……どう……、て……」
途切れ途切れに、うわ言のように発せられる言葉。篤史が必死に声をかけ続けていると、やがて可南の身体から完全に力が抜けた。気を失ったのだ。それと同時にあれほど激しかった呼吸音が徐々に平常を取り戻していく。
篤史の剣幕と、目の前で起きた現実味のない出来事に、薫はただ立ち尽くしていた。
ふと我に返ると、いつの間にかこちらを向いていた篤史と目が合う。
二人はどちらともなく不思議そうに呟いた。
「「”どうして”って……何が?」」
可南が残したうわ言の意味が分からないまま、重苦しい沈黙が会議室に積もっていった。
◆◇◆◇
「……薫さん、俺を呼びに来たんでしょ? 大丈夫、可南は多分すぐに目が覚める。ここに付いててやって。起きたら必ず休養室に連れて行くんだ。過呼吸の反動だけだと思うけど、絶対、すぐには業務に復帰させるな。いいか?」
「あ、はい。わかりました」
篤史は薫の短い返事を聞くと、すぐさま部屋から出て行った。
残された薫は、床に横たわる可南の様子を確認し小さく息を吐いた。ここ最近の可南の働き方は、側で見ていても異常だった。大型連休前後の変則的なスケジュールに始まり「19連勤」という、もはや修行のような過酷な勤務を続けていたのだ。
それでも通常通り業務を捌き、社員の残業も肩代わりし、いつもとさほど変わらない様子で本当に普通に笑っていたのに。
(過労によるストレスか何か? いや、でも、この人にストレスなんて概念あるの??……本当にすぐ起きるのかな)
さっきまでの騒ぎを知らなければ、ただ普通に床で寝ているだけのように見える。
薫の肩からようやく力が抜け、少しずつ思考力が戻ってくると、可南の襟元の締め付けが気になり始めた。そっと手を伸ばし、ネクタイを緩めてシャツのボタンを一つ外してやる。
少しでも寝苦しさが和らぐようにと、カフスのボタンにも手をかけたが──指先が触れた瞬間、その冷たさに薫は一瞬動きを止めた。思わず胸の動きと呼吸音を確かめてしまう。
(息はしてるよな……?そうだよな、生きてるよな)
◆◇◆◇
会議室の外の廊下からは、他の社員たちの足音や話し声が微かに聞こえてくる。窓の外では朝からザアザアと容赦のない雨が降り続いていた。
手元にスマホが無かったため、どれほど時間が経ったのか分からない。いつの間にか薫の手も、可南の手に触れ体温を分け与えたせいか少し冷えていた。
重ねていた手を反対の手に替えようとして手を放す。手を替えるには、自分の座る位置を変えねばと腰を浮かした時だった。
ピクリ、と可南の指先が小さく動いた。
「可南さん?」
覗き込む薫の視線の中で、可南の瞼がゆっくり持ち上がる。ようやく覗いたその薄紅色の瞳は何も見ていないような感じがした。
「……薫くん」
「覚えてます? 篤史さんと話してて、急に倒れられたんですよ」
「あぁ……うん。俺、どのくらい寝てた?」
呟きながら、緩慢な動作で上体を起こそうとする可南を、薫は慌てて両手で制した。
ぱっと見は、受け答えは正常に思えた。けれど薫の胸には言いようのない違和感が湧き上がっていた。
(……薫”くん”?)
今、可南は間違いなく自分のことを「薫くん」と呼んだ。
付き合いの長い彼からそう呼ばれていたのは互いがまだ若かった頃。薫が高校生で、可南がまだ会社を立ち上げる前の話だ。
最近でも本当にごく稀に、からかい混じりの冗談で呼ばれることはあったが、今の可南にそんな雰囲気は微塵もない。
一時的な記憶の混乱だろうか。どちらにしても、可南の精神状態がいつも通りに戻っていないことだけは確かだった。
◆◇◆◇
「ちょ、まだ座ってて下さい! 寝てたっていうか気を失ってたんですよ? もうちょっとじっとしてて下さいよ」
「だってここ床だし……」
「いや、ここでこのまま寝ろって言ってるんじゃなくて! 休養室に行きましょ、休養室」
「えぇ?いいよわざわざ。結構寝たから」
「全っ然、何一つよくないですよ!?」
声を荒げる薫を可南はどこか冷めた目で見つめ、それから普段通りの軽やかな声で遮った。
「人を待たせてる。俺が仕事を滞らせてる場合じゃないからそこ退いて。普通に歩けるし。ね?」
「で、でも……ね? じゃないんですよ」
薫が気圧されている隙に、可南はすっと横を通り抜けた。
「はいはい、大丈夫大丈夫。付いててくれてありがと。あと……こっちもね」
可南は片手で会議室のドアを開けながら、もう片方の手を薫に向けてヒラヒラと小さく動かした。
その動作の意図を察した瞬間、薫の背中にドッと冷や汗が湧く。その手はついさっきまで自分が握っていた方の手だった。
いや、本当は焦る必要などどこにもないのだ。ただ可南の手の冷え方が気の毒だったから、気まぐれに自分の手を重ねて、体温を分けただけ。
でも、彼が目覚める直前には完全に手を離していたはずなのに。
「も、もしかして、結構前から起きてました……!?」
「さぁね♪」
可南はそう言って意味ありげな笑みを浮かべた。そして、あたふたと顔を赤くする薫を残し、そのまま足早に廊下へ出て行ってしまった。
引き止めることに失敗した薫は、ただ立ち尽くすしかなかった。




