29話 月の消える夜
静まり返ったフロアの片隅に仄暗い明かりが灯っている。
少し前まで数名分の足音が響いていたから、まだ何人か残っているのかもしれない。そう思いながら龍は明かりの漏れる部屋をそっと覗いた。
そこにいたのは、一人画面を見つめ黙々とキーボードを叩いている可南だった。
こちらの気配に気づいたのだろう。可南は画面から目を離すことなく問いかけてきた。
「黒瀬さんの所、まだ誰か残ってる?」
「いえ、俺と渡辺さんだけ残ってて今切り上げたんで、もう誰も居ません」
「そう。遅くまでお疲れ様」
そう淡々と告げる可南の横顔を見つめ、龍は言葉を重ねる。
「何か手伝──」
「必要ない」
遮るような短い拒絶に、龍は思わず言葉を詰まらせた。
「……あの」
提案する前に断られたが、そうは言っても分担した方が早く片付く仕事もあるんじゃないか。
そう思い直して部屋へ入り、無意識にデスクへと手を置いた。たまたま指先がツッと可南の小指をかすめた瞬間、バッと勢いよく手を避けられ龍は目を丸くした。
あれだけ気安く人に触れてきていたその人の、過剰なまでの拒絶反応。そして、薄紅色の瞳に浮かんだ敵意にも似た刺々しい険しさ。そのどちらもが、龍の心を激しく動揺させた。
「必要ないと言った。今度は聞こえた?」
「……わかりました、先に失礼します」
それ以上は何も言えず、龍は頭を下げて部屋を出る。
社員が残業時間の上限を超えないように、この人が作業を引き継いで遅くまで残っているのはよくあることだった。そこまでキッパリと必要ないと言い切られてしまうのなら、やはり自分が手を貸す類の仕事ではないのだろう。
それにしても、何故あんなキツい言い方をするのか。
龍は首をかしげながら重い足取りで廊下を歩く。あそこまで攻撃的な目を向けさせるほど、自分が何かミスをしたのだろうか。ありもしない心当たりを探しながら、龍はオフィスを後にした。
◆◇◆◇
遠ざかっていく足音が完全に消え去り、数分が経った。
一人残された部屋で可南は大きく息を吸い、深く吐き出した。
口元で組んでいた両手をほどくと、そのまま両手で顔を覆う。冷え切った手のひらの感触が、熱を持った肌に心地よかった。
背もたれに身体を預け、緊張感の切れた両腕をだらりと下げると力なく天井を仰ぎ見た。
さっきからずっと耳障りな軋んだ音を立てているのは、この椅子か。それとも、自分自身の何かか。
「いつまで、こんなこと……」
ぽつりと呟いた声は、広い部屋にすぐ霧散してしまった。
返ってくるはずのない答えを待つように、可南はそのまま、再び訪れた静寂にじっと耳を澄ませた。
それはいつもと変わらない、星も月も雲に覆われたひどく静かな夜だった。




