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変わらない明日を君と  作者: 夏露
第一章
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25話 無自覚な縄張り争い

「先週もこんな報告聞いたな。全体で共有しておいた方がいいかもしれない」


 静まり返った社長室で、可南は手元の資料に視線を落としたまま静かなトーンで言った。


「黒瀬さん、例の特定コンテンツで起きてる動作不良の件、もっと詳細を書いてきて。どんな端末で、どう操作したら画面が固まるのか、あと現場での応急処置も。すぐに社内共有する」


 龍は大きな体を少し屈めるようにしてその指示を受け止める。


「分かりました。報告書はお持ちすればいいですか?」


「次は直接共有のデータフォルダに入れて、チャットツールで送ってくれればいいから。一応リーダーの渡辺さんにも話は通しておいて」


「はい」


 用件は済んだが龍はそのままデスクの向こうの上司を見つめていた。見惚れていたのではなく、いつもの色白な肌がさらに白くくすんで見えるような気がしてつい確認までしてしまう。


「……あの、何というか、大丈夫ですか?」


「問題ない。そのための服薬だ」


 可南の言葉から察するに、薬が効いていれば多少の不調は何の影響もないということだろうか。しかし、精神面の不調は服薬でカバーが出来ても、単純な肉体の疲労はそうはいかないだろうと思い、龍はさらに言葉を続けた。


「そうですか。でも、もし手が要るようでしたら──」


「いい。君が気にする事じゃないし……それより俺はその報告書を待ってる」


「すみません、すぐお持ちします」


 これ以上踏み込むなと言わんばかりの薄紅色の視線に、龍はそれ以上何も言えなくなり頭を下げて部屋を出た。


 先月、社内でほとんど可南を見かけなかったので、どこかへ長期の出張にでも行っているのかと思っていた。

 けれどある時、篤史がこの最奥の部屋に頻繁に出入りしているのを見て、そこが社長室だったことを思い出した。可南は大体オープンスペースで作業をしていたので、その部屋の存在をすっかり忘れていたのだ。


 最近になってなぜ急にこの部屋に籠もるようになったのだろう。そんな疑問が龍の頭の隅に小さく引っかかっていた。


◆◇◆◇


 今年度からリリースした各プロジェクトは、どれも滞りなく稼働している。それでも大型連休の際には、万一のトラブル対応のために各部署から数人は出勤しなければならない。


 ゴールデンウィークの予定と出勤表を照らし合わせていた龍は、ある箇所を見て思わず二度見してしまった。リストの一番下には可南の行がある。信じられないことにその行すべての欄に『出勤』の文字があった。


(え? あの人GW全日対応?? 去年のもこんなんだったっけか。 まぁ何かあった時に指示を仰ぎやすくていいはいいが、木村さんでさえ飛び石で2日出勤なのに全日出勤って……ワーカホリックか。先週の土日にも出勤してたよな)


 連休直前はシステムに致命的なバグを出さないよう、プログラムの修正や更新を一切禁止する『コードフリーズ』の最終チェックがある。

 それに、連休中の緊急対応のフロー確認などやることは山積みだった。それらをデスクで片付けながら、龍は可南のことばかりを考えていた。


 本人が進んで予定を入れたのだから、部下の自分が口出しする筋合いもない。それに、トップの管理職が一人社内にいてくれるだけで業務中のフットワークが全然違うので、居てもらえるならそれはそれで全員が非常に助かるのもまた事実だった。


◆◇◆◇


 時計の針は進み、終業時刻もとっくに過ぎた夜半前。

 ようやく連休中の引き継ぎ内容をまとめ終えた龍は、帰り支度を始めた。薄手のコートを羽織りながら、ふと午前中の報告書の件を思い出す。あの後すぐに報告書を修正して送ったはずだが、まだ社内の共有データフォルダには反映されていなかったのだ。


 一応、確認が取れているか確かめようと思い、龍は静まり返った廊下を通り可南の部屋へと向かった。


「旭さん、失礼します……」


 ノックをしてそっとドアを開けると、その人はすっかりノートPCを閉じ半ば本気の構えでデスクに突っ伏して眠っていた。


(そうよな、やっぱそうなるよなぁ。疲れてるんだったら家で寝ればいいのに……ん? あれは)


 すうすうと無防備に寝息を立てる可南を眺めていた龍は、その肩に掛けられている上着に目を留めた。

 その上着に、龍は見覚えがあった。カーキ色の少し厚手のニットカーディガン。胸元には特徴的なシルバーの刺繍がある。これの持ち主が誰なのか、龍は嫌というほど知っていた。


──これは、篤史さんの、


「……」


 龍は無言のまま音を立てずに踵を返した。向かったのは廊下の先にある仮眠室だ。そこから社内備品の薄手の毛布を一枚取ってくる。

 再び可南の部屋へと戻ると、龍はその肩に掛けられていたカーディガンをそっと外した。代わりに持ってきた毛布をふわりと掛けてやる。


 篤史のカーディガンは椅子にでも掛けようかと思ったが、何となくそれは嫌で、丁寧に畳んでデスクから少し離れたサイドデスクの端へと置いた。


「あんまり……無理せんで下さいよ」


 吐息に紛れる音量でそう声をかけながら、可南の額にかかる前髪を指先で掬おうとする──が、ハッとして動きを止めた。


 こんな静まり返った夜のオフィスで、寝ている上司に対して何をしているのか。


 万一ここで目が覚めてしまったら、彼から真面目に問い詰められてしまう。顔はただでさえ刺激に敏感な箇所だから、今触れるべきじゃない。

 龍は理性を振り絞りギリギリで思いとどまると、そっと部屋を後にした。


◆◇◆◇


(あれ? 龍さん、毛布なんて持って……今日泊まり込みでもするのか? そんなに急な仕事が??)


 毛布を抱えて廊下を歩いていく龍の姿を見つけ、篤史は不審そうに眉をひそめた。


 各プロジェクトの進行を管理している自分の予定表を見る限り、龍の部署に振った仕事はすべて終わっているはずだし、システム保守の担当からも緊急のバグ修正の依頼は来ていない。仮眠しなければいけないほどの長丁場な仕事はないはずだった。


 数分すると再び龍が廊下を通りかかる。今度は自分の鞄を持っているので帰宅するのだと分かった。


(やっぱり帰るのか。何だったんだ、あの毛布……)


 そこまで考えた時、篤史の頭にある一つの可能性が浮かんだ。

 篤史はスッと席を立ち、確信を持って可南の部屋へと向かう。多分、まだあの人は寝ているはずだ。

 そっと音を立てずにドアを開いて中を覗き込むと、案の定、可南はデスクに突っ伏したまま眠っており、その体にはさっき龍が持っていたはずの毛布がしっかりと掛けられていた。


 そして──少し離れたサイドデスクの隅には、自分のカーディガンが几帳面すぎるほど綺麗に畳まれて置いてある。


(へぇ、これは……随分と分かりやすい。なるほどね。ただの物であっても、俺の物はこの人の側には置いておきたくない、っていう事かな)


 縄張りを上書きされたようなその痕跡に、篤史は眼鏡の奥の紫色の瞳を愉快そうに細めた。


「クスクス……面白い」


 感情の読めない声でポツリと呟くと、篤史は自分のカーディガンを手に取りそっとドアを閉めた。

 そして何故だかひどく上機嫌な足取りで、自分の部署へと戻っていくのだった。

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