【幕間】桜の下のささやかな逆襲
「晴れて良かったですね」
満開の桜が春風に揺れる広場の片隅で、染井薫が手元の紙コップを傾けながら隣に座る上司に声をかけた。
「陽射しがちょっと暑すぎるくらいだね」
旭可南は眩しそうに薄紅色の瞳を細め、少し離れた所で開催されている賑やかな歓送迎会の方を見ていた。
「ちゃんと食べました? 挨拶終わって一回りしたら、早々にこんな所に退いちゃって」
「うん、まぁ当日になれば俺なんて挨拶しか仕事無いからね。俺が賑やかさなくても幹事がいるし、ここから見てると面白いよ。ちゃんと無理なく新人を輪に入れてる……イイ奴しかいないなって……思って……」
だんだんと言葉が途切れ、可南の頭がコクリコクリと舟を漕ぐように揺れ始める。
「ん? ちょっと、寝ちゃダメですよ」
「……起きてる。俺は起きてるんだけど、瞼が寝そう」
「旭さんが率先して居眠りしてどうするんですか。業務時間内ですよ!」
薫の真横からのツッコミにも、可南はとろんとした目のまま素直に甘えるように言った。
「……かおちゃん、肩貸して」
「貸しません」
「俺、元々寝るの下手なんだけど、最近さらになんかさ……じゃあ、膝貸して?」
「そんな語尾上がりの可愛い感じで言っても……あ、ねえ、聞いてます!?」
薫の制止よりも早く、可南はベンチの上でゴロンと寝そべると薫の太ももの上にトスッと頭を乗せてしまった。
「あ~、やっぱかおちゃんの膝のこの高さと弾力が丁度いい」
「くすぐったい! ……せめて車に行って寝れば。ちょっと、向こうに見られてますよ! 何この上司って思われますって」
「うん、……ん」
完全に目を閉じて寝息を立て始めた可南に、薫は大きくため息をつくと、諦めたように自分の上着をその人の身体にかけてやった。
「あーもう! 10分ですからね!」
「薫さん居ないと思ったら、こんなとこで捕まってたの?」
そこへ、クスクスと可笑しそうに笑い声を漏らしながら桐生篤史が近づいてきた。ベンチの上の二人の状況を見て、眼鏡の奥の瞳をさらに細めて笑っている。
「可南さんも居ないなと思ったら寝てるし」
「篤史さんからも言ってもらえませんか、もーこの人強引で」
薫は救いを求めるように、顔を赤くして篤史を見上げた。
「それに、勝手で我儘?」
「そうなんですよ! 大体この前だって家に行ったら料理のリクエストは無理難題だし、夜は帰してくれないわ、ふざけてて寝かせてくれないわで毎回メッチャ疲れるんですよ!? まぁこっちもゲーム機のコントローラー修理とかしてもらってるんですけど」
一気に不満をぶちまける部下を、篤史は穏やかに見つめる。
「でも、僕からすれば何か微笑ましいっていうか」
「ど……どこがですか」
「だって、この人が我儘放題に言うの、ここでは薫さんにだけでしょ?」
「それは知りませんけど」
「薫さんだけだよ。僕とか他の人には言わない」
篤史の言葉に、薫は疑い深そうな顔で眼下の可南を見下ろした。
「多少甘えても受け止めてくれるって思ってるんじゃないかな? 信頼されてるよ。まぁ、可南さん時々鈍いから、本当に嫌ならしっかり言わなきゃね」
「信頼……? いや、俺は知り合ってからは長いですけど、篤史さんや他の人より信頼されてるとはとても思えません。仕事だってまだまだで」
「そういう面ばっかり評価してる訳じゃ無いって事でしょ。こんな無防備に寝顔晒しちゃうくらいなんだし」
篤史が楽しそうに肩を揺らす。
「……そうですかね? あ、10分過ぎてるじゃないですか! 可南さん起きて下さーい! 時間ですよ!」
薫は照れ隠しのように、わざと大きな声を出しながら可南の肩を揺さぶった。
「いや薫さん、10分じゃまだ熟睡タイムなのでは」
「ほら、立ち上がっちゃいますよ! 落ちてもいいんですか?」
「……ダメ、まだ」
半分寝言のような声で抗議しながら、可南はもぞもぞと横向きから仰向けになると、じっと薫の顔を見つめた。陽の光を反射する長い金髪が、薫の膝の上でサラリと広がる。
「……どうしたの?」
寝ぼけ眼の可南が、何か言いたげな薫の表情に気づき無邪気に問いかける。
薫は一瞬だけ考えるように動きを止め──それから、「ニヤリ」という擬音語がぴったりな、悪戯っぽい笑みを唇に浮かべた。
薫はそのまま膝を少し浮かせ、可南の顔めがけて一気に自分の頭を近づけていく。
それは、寝起きの可南が避ける間もないほどの速度で。
ゴツッ!
「痛った!! ……え、何?? なんで?」
「今だいぶ鈍い音したよ。大丈夫ですか?」
額を押さえて飛び起きた可南の様子に、篤史は爆笑をこらえた震え声で形ばかりの気遣いをする。
「ふふふ、俺を困らせるからです。俺だっていつまでもやられてばっかりじゃないんですよ?」
してやったりと言わんばかりの顔で、薫はなぜかご機嫌だった。
「会ったばっかりの学生の頃はあんなに素直だったのに、いつからそんな子に……悪い顔してるぞ! 地味に痛いし」
可南が額にかかる前髪を退けると、そこは確かに少し赤くなっていた。薫の胸に「やりすぎたか」とほんの少しの申し訳なさが湧いたものの、これまでの数々の無理難題の仕返しとしてはこれでも優しい方だと開き直る。
「もうガキじゃありませんから。さ、戻りましょうか」
立ち上がった薫の後ろ姿を見上げ、可南はおでこを押さえたまま首を傾げた。
「なんか薫さん元気だね。俺と一緒に寝てた?」
「さぁ。いい情報でもあったんじゃないですかね? クスクス」
篤史は眼鏡の位置を直しながら、楽しそうに歩き出す2人の後を追った。
◆◇◆◇
一方その頃、ブルーシートの上ではハプニングが起きていた。
バッシャーー!
「うわっ、黒瀬さん大丈夫ですか!?お茶でビッシャビシャですよ!? タオルか何か拭くもの……!」
須藤凪が慌てて立ち上がり、目の前の大柄な男に向かって悲鳴を上げた。
黒瀬龍は、自分が並々と注いだお茶を思いきり自分の服にぶちまけ呆然と立ち尽くしていた。その瞳は完全に焦点を見失っている。
「!! あっ、すみません、手元を見てなくて」
「ほら、タオルタオル! でもまぁ、お茶だからまだ良かったな」
幹事の渡辺が差し出してきたタオルをひったくるように受け取り、龍は必死に胸元を拭いた。
「すみません、後は自分で拭きますから。そっちは濡れませんでしたか?」
「僕も渡辺さんも大丈夫ですよ!新しく飲み物注いでおきますね」
「……ありがとう」
凪が周囲の人にもお茶を注ぎに行ったのを見送り、龍はバクバクとやけに騒がしい心臓を押さえた。その視線は、遠く離れた桜の下のベンチへと釘付けになったままだ。
(今見えたの何だ? 今、薫さんが……あの人に。何で?? ……え?)
さっきから龍は、向こうのベンチで可南が薫に膝枕をされているのを、胸が締め付けられるような思いで盗み見ていた。そしてつい今しがた、薫が可南にキスをするような仕草が見えて盛大に動揺したところである。
そう、位置と角度の関係で、薫が可南に放った渾身のヘッドバット(頭突き)の瞬間が、まるで『深く顔を近づけて口づけを交わした』かのように龍には見えていたのだった。
普段物静かな龍が、お茶を盛大に撒き散らすほどの大パニックを起こしている理由は誰も知らなかった。
宴会に戻ってきた可南のおでこが地味に赤くなっているのに気づき、龍が更に混乱したのは言うまでもない。




