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変わらない明日を君と  作者: 夏露
第一章
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23話 均衡の綻び

【旭可南 視点】


 またこの天候のぐずつきやすい季節がやってきた。

 それはいい、毎年のことだから想定内だ。あらかじめ身構えることはできる。


 ただ、外はまだ大降りというわけではなく、窓を叩くのはまばらな雨音。それなのに、俺の耳はまたあの幻聴を捕らえ始めていた。

 まだ薬の調整前だから、聞こえること自体は仕方がないとも言える。けれど俺は動揺していた。なぜなら──


「……はっ……はぁっ……何、で……」


 今まで職場で出たことのなかった、この過呼吸の症状が静かに始まっていたからだ。


 初めての状況に混乱しそうになる頭を必死に落ち着かせる。この俺が、こんな所で倒れるわけにはいかない。一度始まってしまえば制御なんて出来るものじゃないが、それでもやはり職場で気が張っているのだろう。発作そのものは大分軽く、もう少し静かにしていればこのまま自然と収まりそうな気配だった。


 症状は軽くても、今の状態を誰かに見られるのはまずい。


 俺は、普段からほとんど人が行かない奥まった資料倉庫室に籠もっていた。この部屋には窓がない。外の雨音が完全に遮断される空間は、今の俺にはこれ以上無く都合が良かった。


 狭い部屋の片隅で、ひたすら呼気を調整することだけに集中していた俺は、部屋のドアが開き電気が点いた事にもまったく気が付かなかった。


◆◇◆◇


「何で見つからないんだよ。まぁ確かにここはもうちょっと整理しないとなぁ」


 ぶつぶつと独り言をこぼしながら、篤史は資料室のドアを開き壁際のスイッチを入れて電気を付けた。


 20分ほど前、薫に「ある資料を持ってきてほしい」と頼んだのだが、どうしても見つからないと言って戻ってきたのだ。


「というか、ここに無かったら一体どこに?過去5年分は取ってあるはずだぞ」


 段ボールのラベルを一つずつ丁寧に確認し、箱の中身を改め棚の隅から隅まで確認していく。しかしあるはずの場所に探しているファイルは見当たらない。


 篤史は仕方なく捜索範囲を広げ、別の棚の通路へと移動していく。


「前使ったやつ誰だよ、ちゃんと戻せよな」


 そこでもお目当てのファイルは見つからず、イライラしながら次の棚へ向かおうとすると視界の端、暗がりの残る部屋の奥に、一瞬だけ人影が見えたような気がした。


(ん? 人??)


 部屋の奥には簡易的なワークデスクと椅子が何脚か置いてあるだけだった。今自分が電気をつけて入ってきたばかりの部屋だ。到底先客がいるとは思えず篤史の背筋にゾクゾクと悪寒が走り、冷や汗がにじんだ。


 歩みを止め、息を殺して耳を澄ます。すると、唸るような空調音に混ざって妙に浅く短い人間の呼吸音が聞こえたような気がした。

 確かめてみなければ気が済まない。篤史は数歩後ろに戻り、手前の通路の向こうを慎重に覗き込んだ。


「あれ? 旭さん、こんな所で」


 小柄で細身な体型、襟のデザインが個性的なオーダースーツ、肩にわずかにかかる金色の髪。

 それは見間違いようもなく旭可南だった。


 幽霊の類ではなく生きた人間だったことにひとまず安堵しながら近づいたが、すぐに可南の様子がおかしいことに気がついた。


 最初はデスクに突っ伏して寝ているのかと思ったが、その肩の上下の頻度がやや高い。起きている雰囲気はあるのに、こちらの声掛けに対して顔すら上げないのも明らかに不自然だった。


「旭さん? 具合でも……可南?? どうした?人を呼ぶか?」


「篤史さん……ちが、大丈夫」


 普通の息が上がった状態よりも、やたらと呼気が短い。呼吸の合間にやっとの思いで言葉を紡いでいるような状態だ。どう見ても大丈夫ではない。


 しかし、それ以外に外傷などの異変は見当たらなかった。篤史が焦りを含んだ目で見守っていると、可南はモソモソと気怠げな動作で上半身を起こした。


「ちょっと、過呼吸気味でここに……もう、収まる」


「過呼吸? という事は、紙袋かビニール袋でも」


「いい。戻って」


「いや、無理ですよ? そんな事出来ません。収まるまでここに居ます。業務命令でも聞けませんから」


 きっぱりと告げて、篤史は横のデスクから椅子を持ってくると可南の正面に座った。


 確かに可南が言った通り、呼吸は徐々にゆっくりと落ち着きを取り戻しつつある。それでも、1分間の息止め競争をした直後のような荒さは残っていた。


「年に1~2回なる、慣れてるから……大丈夫」


 実際には年に1~2回の頻度なんかではなく、こうやって雨の音が響くたび大なり小なり幻聴や過呼吸は起きていた。

 しかしそんな事実をここで漏らしてしまえば、篤史の怒涛の尋問に遭う上に、今後会社にいる間中ずっと監視されかねない。だから可南は、そう嘘をつくしかなかった。


「今、僕に手伝えることは?」


「ん……何か、話して」


「話す? それでいいんですか?」


「気を、紛らわしたい」


 何から気を紛らわしたいのか。その言葉の裏にある「何か」が猛烈に気になったが、篤史はあえてそれ以上追及しなかった。今はこの状態を一刻も早く改善するのが先だと判断したのだ。


 あまり小難しい仕事の話をして疲れさせるのも良くないと考え、最近の凪がやらかした面白い失敗談や、自分の趣味である釣りの話など、たわいもない話題を次々に選んで聞かせていった。


◆◇◆◇


 雑談をし始めてから5分ほど経った頃だろうか。それまで焦点が微妙に合っていなかった可南の視線がしっかりと篤史の瞳を捉えるようになり、短い相槌も打てるようになっていた。


「もう大丈夫。時間取らせて申し訳なかったね」


「戻られるんですか? 休養室行きません?」


「身体は何ともないし、騒がれたくない」


「そうですか……けど」


「うん?」


「本当にこれは滅多に無い事なんですか? 本当に?」


 真面目な顔で念を押され、可南は思わず笑ってしまった。

 自分に兄弟はいないが、もし心配性の兄がいたら、こんな風に眉をひそめて小言を言うんだろうかと思ったからだ。


 それにしても、本当に彼は──。


「そう言ってるでしょ。……ちょっといい?」


 形だけの伺いを立てるのと同時に、可南の手はすでに篤史の眼鏡のフレームに伸びていた。そのまま流れるように外しにかかる。


「?! な、何を?」


「そんなに人の心配ばっかりしなくていいよ。俺に兄さんが居たら、篤史さんみたいな感じなのかな?(笑) 眉間にシワが寄りっぱなし……こうやって、っと」


 可南は眼鏡を横に置くと、篤史の顔に手を伸ばした。自分の両親指を篤史の左右の眉頭にクッと当てると、そこから眉尻にかけて、親指の腹でグニグニと優しくマッサージをするように揉みほぐした。


「何をするかと思ったら。僕は姉はいますけど、弟はいないんですよね。なりますか?弟」


「えっ、いいの?でも弟って実際何すればいい?イメージ的には上に絶対服従とか、下僕と主とか……」


「もっと一般的な兄弟像に寄せて下さい。家族ですよ?」


「ふーん?難しいな。ねぇ、篤史さん、さっき一瞬さ」


「はい」


「……いや、何で話し方変えちゃったんだっけ。俺は前のままでも良かったのに」


 可南の問いに、篤史はふっと瞳をわずかに伏せた。


「変えるべきだと思ったからです。普通はそうでしょ? 貴方の下につくと決めたのに、友達口調のままじゃ周りに示しがつかない。貴方の振る舞いもちゃんと変わっていたから、僕が出しゃばる必要もなかった」


「そっか。じゃあ、こういう時だけ普通に話したら? だって昔はあんなに尖って──」


 過去に尖り過ぎていた自分の黒歴史を晒されそうになり、篤史は思わずむせそうになった。

 相変わらずマッサージをしてくれていた可南の両手首を素早く捕まえて下に降ろすと、大慌てで自身の人差し指を可南の薄い唇へスッと押し当てる。


「……っそれはストップ! 今すぐ忘れて下さい。」


「ふふっ。あれが本来の篤史さんなのに?」


「何を……! もう違う。僕には僕のポリシーがあってこうしてるんです」


「まぁ篤史さんが窮屈じゃないならいいんだ。別に。そろそろ探されそうだから行こうか」


「そうですね」


 可南が椅子から立ち上がりドアへと向かう。その背中を追いながら篤史は眼鏡をかけ直した。


「篤史さん」


「はい?」


「ずっとそのままでいて。篤史さんになら、皆ちゃんと付いて行くよ」


「何の話ですか? 漠然と『そのまま』って言われると、進歩も成長もしない感じがして了承出来かねます。もう少し具体的に明確なビジョンを伴った説明を──」


「そう、その感じだよ(笑)そうやって居て欲しいんだ」


 急に話題が飛んだような抽象的な言葉に、篤史がすかさず説明を求めると、可南はどこか救われたようなホッとしたような顔で笑った。


 腑に落ちない顔のままの篤史を押し出すようにして廊下に出て、二人は並んで歩き始める。


 可南が放った言葉の意味をずっと考えていた篤史は、自分がここに来た肝心の目的──薫に頼まれた資料を全く見つけていないということを、すっかり忘れてしまっているのだった。


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