20話 春雷と自惚れ 前編
【旭可南 視点】
凍り付くような冬の寒さは1日1日と和らいで、湿気を含んだ柔らかな春の風が吹き始めていた。
オフィスの一室から、明るい女性の声が響く。
「私は土日どっちでも大丈夫だよぉ」
「わかった、じゃあまた後で──」
桜との打ち合わせもあらかた終わり、俺は足早に部屋を出ようとした。目の前の確認もせず廊下へ一歩踏み出した時、
──ドンッ!
突然胸元に強い衝撃を受けて、後ろへ弾き飛ばされそうになる。硬くない、肉壁のような弾力。すぐに、人にぶつかったのだと理解した。
両手は書類やノートPCを抱えていて塞がっていた。どう着地すれば被害が最小限になるか脳内で高速思考していた最中、誰かの力強い手が俺の左腕をガシッと掴んで引き上げた。
なんとか転倒は免れたものの、腕を引かれた勢いで抱えていたノートPCが手元から滑り落ちそうになる。
「あっ!」
「……っと!」
二つの声が重なったと同時に、腕だけじゃなくグイッと右側の腰も抱き寄せられた。俺の身体と相手のガッシリとした身体の間に挟み込まれるような形で、ノートPCは固定された。PCの無事を確認すると俺と相手は同時に安堵の息を漏らした。
「申し訳ない、僕が前を見てなくて……」
そこでようやくふいっと顔を上げると、怒ったような焦ったような微妙な顔をした黒瀬龍の姿が目に入った。30センチ弱という圧倒的な体格差だ。あの勢いで衝突すれば、自分が弾き飛ばされるのも当然だと納得する。
「お喋りを楽しむのは結構ですが、前くらい見て下さい」
「そうだね。ありがと」
「……PC早く取ったらどうです?」
「そうしたいけど、腕が君に拘束されてる」
「!」
言われて初めて気づいたようで、龍は弾かれたように俺の左腕から手を放した。それから二人の間に挟まっていたノートPCをそっと取って手渡してくる。
「水野さんと……」
かろうじて聞き取れるほどの小さな声で、龍がぽつりと言った。そこで不自然に言葉が途切れる。いつもなら不躾なくらいにまっすぐ俺の目を見てくるのに、なぜか今日は視線が合わない。
「相変わらず、仲いいっすね」
「まぁね。桜が居なかったら今の俺はない。いや、それはちょっと大げさかな。でも、ここまで来るのに数年は遅れてた。だから彼女の信頼には出来る限り応えたい。そう思ってるだけで……って、どうしたの?」
龍の雰囲気が変わった気がして横顔を覗き込んでみるが、この距離でもやはり目は合わない。
「……何がです?」
「今日何か、そっちの部署で問題でもあった?」
「いえ」
「んー? でもさ……もしかして熱でも……」
いつもと違う挙動に少し心配になって、龍の額に手を伸ばしかけた、その時。
──パシッ!
「!」
乾いた音が響き、俺の手は虚しく空を切った。
あまりにも彼らしくない乱暴な拒絶に驚いてサッと手を引っ込める。いつもなら、どれだけちょっかいを出してもこんな手荒な真似はしてこない。
龍は顔を完全に背けてしまい、その表情を窺い知ることも出来なかった。
「……っ……すみません。戻ります」
絞り出すような声でそれだけ言うと、龍は背を向けて足早に自分の部署へと戻っていった。
最初は機嫌が悪いのかと思った。次に、疲れか体調不良でしんどいのか、と案じた。最後に、何か怒らせるようなことを言っただろうか、と自問する。
けれど、どの感情もさっき彼が漏らしたあの苦しげな声とは一致しない。
(人のことは散々追及してくるくせに、自分のことは何も話さないなんて、納得がいかない。……何だ? なんで急に……)
龍の背中を見送りながらこの違和感の理由を考える。彼には今までの恩がある。もし悩んでいることがあるのなら、どんなことでも協力を惜しまないつもりだった。
◆◇◆◇
【黒瀬龍 視点】
やはり、あの人の声だけはオフィスの喧騒の中でも聞き分けてしまう。
この先にあるデザイン部の部屋。
ここ最近、可南が足繁く通っては桜のデスクに来ている姿を何度も見かけていた。そのたびに日時がどうだの場所がどうだのと、二人で楽しげに何かを相談し、話し合っていた。
今日もその弾んだ声が、廊下まで聞こえて来ている。
プライベートな用事にしては社内で堂々とし過ぎているし、仕事にしては可南の様子が少々浮かれている気がしていた。
学生時代からの付き合いである二人の距離感は近い。さらに社内では「あの二人は昔付き合っていたらしい」なんて噂まで耳にしてしまえば心中穏やかではいられない。
──けど、あの人は別に俺のものではないし、こっちが一方的に片思いをしてるだけ。どんな振る舞いをされようが咎める権利はない。
仲睦まじい二人の光景を見たくなくて、一刻も早くその場を通り過ぎようと歩みを速めた。
脇目も振らずに歩き、ちょうどデザイン部の前に差し掛かったその時だった。勢いよく部屋から誰かが飛び出してきたのだ。
ドン、と鈍い衝撃。
俺に弾かれてすっ転びそうになった相手の腕を、反射的に掴んで引き上げる。陽の光に透けるゴールドの髪が視界に飛び込んできて、それが誰なのか判別出来た。
可南が手にしていたノートPCが落ちそうになるのを見て、華奢な身体ごと抱き止めれば思った以上に距離が近い。不意に見上げてくるその人の瞳が眩し過ぎて、まともに顔が見られなかった。
しかし顔が見られなくても、その人からはさっきまで桜と話していた余韻か、嬉々とした雰囲気が伝わってきた。
胸の奥が波立って、苛立ちと切なさが折り重なったようなひねた気持ちが湧く。つい可南への物言いが強くなり、挙句の果てに自ら桜の話題まで振ってしまった。
せめて「ただのビジネスパートナーで特別な感情はない」と、都合のいい言葉を言ってくれないかと期待したが、返ってきたのは俺が逆立ちしても太刀打ちできそうにないほど、彼女に全幅の信頼を寄せる言葉だった。
お似合いの二人だと思った。このまま二人がくっつくのが、きっと自然な流れなのだろう。
酷い顔をしていた自覚はある。可南はしきりに俺の様子を探ってきた。
たかが一社員の不機嫌にまで、いちいち気を配って親愛の情を向けてくる彼の態度にうんざりして、気づけば俺はその伸ばされた手を強く払いのけてしまった。
どうしてこの人は、こう無邪気に人に好意を向け、簡単に口に出して来るのだろう。
まるで「君は特別だ」と言わんばかりに寄り添って、手を尽くそうとする。
俺はいつの間にかだいぶ自惚れてしまっていた。選ぶ気が無いのなら、好意なんてそんなもの、最低限で良かったのに。
勝手に感情が高ぶって目の奥が熱くなる。こんな情けない顔は可南には見せられなかった。
「……っ……すみません。戻ります」
何とかそれだけを告げ、俺は逃げるようにしてその場から立ち去った。




