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変わらない明日を君と  作者: 夏露
第一章
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19話 蜘蛛の糸の先に

「もしもし?黒瀬さん、ですか?」


 それは、初めて聞く女性の声だった。

 期待と緊張でスマホを握る手のひらがじっとりと汗ばむ。


 水野桜に無茶な頼み事をしてから数週間、手にした蜘蛛の糸の先が切れているのか繋がっているのか、全く分からないまま日々が過ぎていた。


 そんな中、ついに俺のスマホに見知らぬ番号から電話がかかってきた。意を決して通話ボタンを押して聞こえてきたのがさっきの台詞である。


「私、友達からこの番号に電話してあげてって言われて……。旭君の昔のことを知りたいって、どうしてですか?」


 その女性は秋葉翠と名乗った。凛と澄んだその声には、なんとなく不信感が滲んでいる。


「電話、本当にありがとうございます。私は旭さんの会社の部下で、黒瀬龍といいます」


「部下の方が、どうしてわざわざ上司の事を私に?」


 ますます不信感の深まった声に、内心で(そりゃあ、警戒されて当然だ)と大いに頷いた。


 見知らぬ男から突然コンタクトを試みられ、その男から「俺の上司の過去を教えろ」と迫られているのだ。下手をすれば、弱みでも探っているライバル会社のスパイか何かだと思われるかもしれない。


 それでも、ようやく掴んだチャンスを逃したくはなかった。俺は自分でも引くほど必死に誠意を伝えようと言葉を並べた。


「説明すると長くなりますが──」


 どこまで可南の事を話すか一瞬考える。

 まず、この前目撃してしまった自傷の件や、過去の家庭環境によるトラウマについては知ればショックが大きいかもしれないので伏せることにした。


 ただ、天候によって著しく心身のバランスを崩すことがあり、それがいつからなのか、何が原因なのかを知りたいということ。加えて、日頃から世話になっているので、もし自分に出来ることがあるのなら力になりたいと思っていることなどを切々と訴えた。


 そして気づけば、九割以上の本心を熱を帯びた言葉にしてぶつけていた。

 短い沈黙の後、電話の向こうで秋葉さんが小さくため息をつく気配がした。少しだけ声のトーンが柔らかくなる。


「可南君、本当はまだ雨が駄目なんですね……。普通の雨はそうでもなくて、ちょっと強くなってくると、様子が変っていうか」


「ええ、そう!それは、いつからです?」


「可南君は4年生の時に転校してきたんです。よく体調を崩すけど、当時は『気圧に影響されやすいだけ』って聞いてて。私も子供だったし、そういうものなんだって思ってたけど……気象病って、今はよく聞きますよね。私の友達にもいるんです。だから……今思うと、可南君のは違うような気がして」


「それは、どう違うと?」


「友達は、天気が悪くなる前日とか、直前が一番具合が悪いんです。雨の間ずっと体調が悪いわけじゃない。でも、可南君のは気圧というよりも……雨自体の何かが、極端に苦手なんじゃないかって」


「雨自体……じゃあ、転校前はどこに住んでたとか、学校名とか、聞いたことはありませんか?」


「確か卒業の時の寄せ書き帳に、出身地は書いてもらったような……今探して来ますね。学校名は聞いた気もするんですけど……ちょっと今すぐには思い出せなくて。すみません、お力になれず」


「いえ、とんでもないです。本当にありがとうございます」


◆◇◆◇


 通話を終え、俺は手元のメモ帳に書き殴ったわずかな手がかりを凝視していた。


(この市内に、小学校はいくつある? もし学校を特定できたとして、その先はどう動く?


 いっそ、可南さんに直接「小学校はどちらですか」と聞いてみるか……いや、それはあまりにも不自然すぎる。バカ正直に「貴方のために調べています」と言ったところで今までの反応から考えて、また拒絶されるのは間違いない。


 それに、おそらく幼少期に遡ればさかのぼるほど、虐待を受けていた時期に近くなる。何がトリガーとなってトラウマを刺激してしまうかわからない)


 考えに行き詰まった俺は、胸の中に燻る焦燥感を少しでも逃がすため、気分転換にオフィスの外へと足を踏み出した。


 冷たい冬の風が、煮え立った頭を冷やしていく。あの人の過去へ続くような薄暗い霧の向こうを、俺はじっと見つめていた。


◆◇◆◇


 一方、静まり返った部屋で、秋葉翠はスマホをベッドに放り出し、自身もベッドの上で寝転んで身体を沈めていた。その表情は深い憂いを帯びている。


 今、黒瀬という可南の部下の男から聞いた話は、実はそれほど意外なことではなかった。けれど、だからこそ彼女の気持ちは重く沈んでいく。


「可南君の嘘つき」


 ぽつりと、誰に届くでもない呟きが漏れた。


 数年前、ひどい雨の日に慎と一緒に合鍵で入った部屋。リビングの床の上で、ただ倒れていた可南の姿が脳裏をよぎる。


──あれはまだ、終わっていなかったんだ。


 あの時は可南のプライドを守るために「深酒で潰れた」という嘘を信じたフリをしたけど、彼の心はずっと、雨の日に囚われたままだったのだ。


(本当に、いつからああなったんだろう。可南君の前の小学校、自己紹介の時に絶対名前を聞いたはずなんだけど……)


 ベッドの上で意味もなく右へ左へゴロゴロと転がって、翠は再び天井を見つめた。


(確か、学校の名前を聞いた時に、なにか思ったんだよねぇ、何か……何だっけ?えーっと……)


 どうしても思い出せないボヤボヤとした記憶の輪郭に、翠はもどかしそうに足をバタつかせるのだった。


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