17話 それは蜘蛛の糸のような
「黒瀬さん、さっきのデータチェック終わったら一旦こっちに回して」
「はい、すぐに」
オフィスに響く、少し高めの聞き慣れた声に短く応じ、俺はちらりとその人の背中を盗み見た。
本当に、可南は何事もなかったかのようにいつも通りだ――そう胸の内で呟きながら、キーボードを叩く手を進める。
少しくらい、何かが変わると思っていた。
夜を照らす月のようなあの人の、誰も見たことのない裏側を知ってしまったあの夜。
俺はあまりにも出過ぎた真似をしたんじゃないかと、週末の間ずっと、後悔とモヤモヤとした思いを抱えていた。弱みを晒すあんな姿を見て、あんなに触れて抱きしめて、あげくの果てに同じベッドで夜を明かして……。
月曜日、俺は一体どんな顔をしてオフィスであの人と会えばいいのかと、茹だった頭でそればかりを考えていた。
しかし、いざ対面してみると可南は気まずそうにするでも、距離を詰めてくるでもなく、拍子抜けするほどいつも通りだった。
普通なら、あれだけ自分の内を晒せば、晒した相手に対して態度に何かしらの変化があるものじゃないだろうか。
あれから数週間経つが、本当に何も無かったようにいつも通り仕事を捌き、冗談を飛ばし、笑い、気安く触れてくる。
その姿を見ていると、あの夜の出来事は俺が見たリアルすぎる夢だったのではないかと思えてくる。どうやっても、目の前のエネルギッシュな人とは結びつかない。
けれど、あの日に受け取れなかった荷物の不在票も、夜中に酒を買い込んだレシートも、形として手元に残っている『現実』だった。
その全てが現実なら「もう引き下がらない」と、あの夜可南に言った俺の言葉も現実ということ。
"引き下がらない"というのは、ただその場に留まるという意味じゃない。進み続ける、という意味だ。
脳裏に、あの夜のいくつかの言葉が思い出される。
──雨の音。聞いたことのある声。ある時から。
可南がああも激しい罪悪感に駆られるようになった原因は、きっと過去にあるはず。
思い返してみれば、あの人の様子がいつもと違っておかしくなるのは、決まって強い雨が降る日。一体、いつから。何が原因なのか。
帰宅後、俺はふと思いついて、ある人に電話をかけようとしていた。
その人物は……水野桜。
彼女は可南と高校、大学ともに同じ学び舎で過ごした、会社の立ち上げメンバーのひとりだ。彼女なら、何か知っているかもしれない。
微かな希望を胸に、俺は受話器の向こうの彼女に話し始めた。
◆◇◆◇
どこまで事情を話すべきか悩んだが、不審に思われないよう、ただ軽く「可南が天候によって体調を崩す、気象病などの持病を昔から持っていなかったか」と尋ねるに留めた。
電話の向こうで、桜は記憶を探るように少し間を置いてから話し出す。
「ん~、言われてみれば高校の時は確かに体調を崩しやすかったかも?急に授業中に倒れちゃったこともあったし。でも、大学に入ってからは私が知る限りそんなこと一度もないかなぁ。でも、どうしてそんなこと聞くの?」
高校時代にすでにその兆候があったのなら、もっと過去を遡るしかない。中学校、小学校、あるいはもっと前か。
スマホの向こうから、訝しんでいる気配が微かに伝わって来る。しかし、俺はさらに踏み込んで尋ねた。
「可南さんと同じ中学校出身の知り合いで、連絡が取れる方は居ませんか」
彼女は俺の語気の必死さに何かを感じ取ったのか、困惑しながらも「心当たりはあるから聞くだけ聞いてみる」と了承してくれた。
後日、桜から連絡が入った。彼女の友人がさらに人脈を辿ってくれた結果、可南の小学校時代からの幼馴染を知る人物に行き着いたのだという。俺の番号は伝えてあるので、その幼馴染が了承すれば向こうから連絡が来る、と言われた。
意図をハッキリと伝えないような無茶な頼みを、真摯に聞いてくれた彼女に俺は大げさなほど感謝した。
連絡が来るかどうかも分からない、蜘蛛の糸に縋るような期待と不安。
俺はただ祈るような思いでスマホを見つめていた。




