14話 月の裏側 後編
身体の制御さえままならないはずの可南が、龍の微かな気配の変化を察知したのか掠れた声で囁いた。
「龍さんは本当に……これ以上俺を、知りたい……?」
心臓を、ヒヤリと冷たい手で掴まれたような感覚に龍の動きは止まる。
これまでの経験で分かっていた。ここから先は聞いてはいけない。他人の人生の闇は、自分が想像するより遥かに重く深い。特に、この人の「これ以上」は踏み込んではいけない気がした。
(俺に何が出来る? 自分の事だけでも手一杯な俺が、この人に何を──。でも……)
龍はどうしても首を横に振ることが出来なかった。
言葉を返す代わりに、可南を抱いていた腕の力をぎゅっと、わずかに強める。
(この人は、俺に何度も手を差し伸べてくれたじゃないか。ただ信じて、俺自身を見てくれた。今度は俺が、この人の力になるって決めたはずだ)
言葉にならないサインは確かに可南に伝わった。
「……そう。でも、その前に……横になりたい……」
「っ、すんません、気づかなかった! 体、しんどいっすよね」
「視界が……回るし、床が、膨らんで……攻めてくる」
「……酒と一緒に、なんかヤバイもんやってないっすよね?」
「ヤバイ? 普通の……安定剤と、眠剤だよ」
「こんな無茶な飲み方、内臓壊しますよ。……あーもう、こっちの方が早いな」
座った姿勢を維持するのも難しい可南を見て、龍は躊躇うことなく彼の膝裏と背中に腕を通した。大人と子供とも言える体格差、可南の身体はいとも簡単に持ち上げられ、あっという間に横抱きに──お姫様抱きにされていた。
「!? 恥ずかし……っ、降ろして、龍さん」
「酔っぱらいは黙って下さい」
「真面目にやめっ……嫌だってば!」
「じゃあ、今すぐここで手を放しますか?」
「っ……」
可南は悔しそうに口を噤み、おとなしく龍の首に腕を回した。
寝室へ向かい、ベッドにそっと可南を寝かせると羽毛布団を優しくかける。小さく息を吐き出した可南は、赤く腫れた目で今度はしっかりと龍の瞳を見つめ返した。
「……ありがと」
「いえ、なんも」
龍はベッドサイドの床に腰を下ろし、その時を静かに待った。
◆◇◆◇
「背中……見たよね。多分、龍さんが思ってる通り。俺の親は、本当は優しい人だった。でも、人より少し、心が弱かった」
語りながら、可南は細い指先を自分の首元のチョーカーへと伸ばした。人前で取られた事のなかったトレードマークの革紐がスルリと外される。
その下に隠されていたものを見た瞬間、龍の眉間に深いシワが寄った。
可南の首の左側面からうなじに向かって、長さ7センチほどに及ぶ、いびつなカギ裂きのような手術痕が一筋生々しく走っていた。
胸が押し潰されるような苦しさが龍を襲う。
「俺は一緒にいってあげられなくて。昔は、早く追わなきゃって思ってたけど、でも……今はそれは違うって思う。だけど、親を狂わせたっていう罪悪感や後悔は消えなかった。それが時々……強く、なって」
可南の呼吸が目に見えて短く荒くなっていく。
「何か他にも……俺のせいで……誰か、が……俺の……っ……」
「いいです!もう無理に話さんでも、いいですから!」
たまらず龍は叫び、可南の言葉を遮った。
「息して下さい! 吸うよりゆっくり吐いて! ちゃんと俺の真似して下さい」
「……雨音の中で、誰かが呼ぶんだ。そうなると、負の感情がどんどん増幅されて……いつの間にか、過ぎた過去のことにさえ、赦しを乞い始めてる。そのたび……俺は消えそうになって……」
ベッドの上で、可南は自らの爪をさっき処置したばかりの左手首にギリギリと食い込ませていく。
「いつも俺だけが、生きてる。……どうして、俺が……」
まるでまだ自分を罰し足りないとでも言うように、爪を食い込ませる力は強くなっていく。龍は気遣わしげにその右手を大きな手で包み込み、少しの間、何かを考えるように目を閉じた後、バッと立ち上がった。
「ちょっと失礼しますよ。……っよっと!」
「な、に……っ!?」
龍は問答無用で布団をめくると、可南の腰と上半身を順に持ち上げベッドの壁際へと移動させた。そして、その空いた狭いスペースに自らの大きな身体を無理やり潜り込ませた。
190センチの大柄な男と、細身とはいえ成人男性の二人が収まれば、当然普通のシングルベッドでは隙間がほぼなくなる。肌と肌が衣服越しに密着し、龍の体温が冷えた可南の身体に移っていく。
「思ったよりイケますね」
「イケてない、せまっ! え?! 近いよ龍さん!」
うろたえる可南を無視して、龍はこれでもかと身体を密着させると、まるで壊れ物でも扱うように優しくそっと半身だけ覆いかぶさるようにして抱きしめた。
そして、耳元で静かに子守唄でも歌うようなトーンで話し始める。
「笑わんで、聞いて下さいよ」
「……?」
「俺は、貴方を尊敬してます。これまで大事にしてもらって……貴方と会えたことが、心底幸せだと思ってる」
珍しく、可南は何も言ってこなかった。けれど、続く言葉を待っている気配はする。龍は無意識にツバをのみ込んだ。
「だから…ずっと、ちゃんとここに居て下さいよ。俺と、他のみんなとも一緒に生きて……ここに居て下さいよ……可南」
初めて、肩書きを外してその名を呼んだ。
龍は大きな手のひらを可南の背中に当てると、あの古傷のあった辺りをゆっくりと慈しむように撫でた。
そうした所で可南の傷も過去も消えるわけではない。けれど、今こうしてここにいる存在も、これまでの軌跡も全部認めて、称えたいと心から思ったから。
普段は見えることの無い、月の裏側の荒れ地まで愛おしいと思ったから。
可南はもう抵抗しなかった。龍の胸の中にすっぽりと収まったまま、ただ額を龍のシャツの胸元へ深く埋めていた。
やがて静かな涙が龍の胸を濡らし始めても、龍は気づいていないふりをした。腕の中でちんまりと丸まったその人は、眠りに落ちるその瞬間まで声を殺して泣き続けていた。
(なんで自分の事に関してはこんなに不器用なんだ……。こうまでしないと泣くことも出来ない、こうなっても助けも求めない。どれだけの年月、こんな時間を過ごしてきたんだ。たった独り、生きたいって、泣きながら……)
月の薄明かりに照らされた可南の白い首筋。
そこに刻まれた、薄桃色に色づくカギ裂きの傷跡を、龍はいつまでも見つめ続けていた。




