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変わらない明日を君と  作者: 夏露
第一章
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13話 月の裏側 前編

 十二月の年末進行。凍てつくような冬の夜気の中、何日かぶりに早く帰宅出来た龍は自宅のソファに深く身体を沈めていた。


 張り詰めていた緊張がほどけていく感覚の中、ふと脇に置いた仕事鞄の口から見覚えのあるシックな革製の資料ファイルが覗いていることに気づいた。


「……あ」


 ひょいと取り出してみれば、それは間違いなく旭可南の個人ファイルだった。

 あの人のことだ。きっと今夜も自宅でこの資料を使うに違いない。届けたほうがいい、いや、これは届けるべきだ。


「はぁー……ったく、しゃあないな」


 スマホを拾い上げ、メッセージアプリを開く。今夜必要かどうかの確認をして、もし不要と言われれば休み明けでいい。ほんの少しの「声が聞けるかもしれない」という下心を隠しながら、龍はメッセージを送信した。


 普段なら、どれほど深夜であっても返信をくれる人だ。しかし、今日は30分が経過してもメッセージに『既読』の文字が付くことはなかった。


 ふと、今日オフィスで見かけた可南の横顔が脳裏をよぎる。スケジュールが詰まりすぎていて声をかける余裕もなかったが、あの時の可南の薄紅色の瞳は、いつかのようにどこか遠くの幻を見つめているようにかげって見えた。


「もうすぐ21時か……ま、いい部下らしく手土産でも持って突撃しますかね」


 返信を待たず、「今から届けます」とだけ短く追加のメッセージを送り、龍はコートを掴んで外へと出た。


◆◇◆◇


 可南のマンションの前まで来て、数回ドアフォンを鳴らしたが返事はない。


 留守か、もしくはもう寝ているのか。

 こういう時に使ってもいいだろうか、もしもの時のために、と家が近い自分が仕事の都合上預かっていた合鍵をキーケースの中から探す。しかし、ふと思い立ち、試しにドアノブを握って回してみた。


 カチャ、と軽い音を立てて、何の抵抗もなく扉が開く。


「随分不用心だな……。どこかで飲んで帰ってきて、よっぽどはしゃいだとか?」


 だからメッセージに気づかなくて返信がなかったのか、と少しだけ安堵の息を吐きながら、龍は玄関に一歩足を踏み入れた。


「可南さん? お邪魔します。お疲れっすー……」


 声をかけながら靴を脱ごうとして、龍の身体はピタリと止まった。視界に入ったのは玄関の三和土たたきにぽつんと落ちている鍵。そして──。


(……なんだ、この匂い)


 鼻を突いたのは、今まで嗅いだことのない、ねっとりとした濃い鉄の匂い。

 静まり返った部屋の奥から、ひゅー、ひゅー、と、ごく小さな掠れた泣き声のような呼吸が聞こえてくる。人の気配は、玄関に一番近い洗面所からだった。


 心臓の鼓動が急速に早まっていく。龍は資料ファイルと荷物を床に置き、大股で洗面所の扉を押し開けた。


「ッ?!?!」


 視界に飛び込んできたのは、膝立ちになり洗面台に突っ伏している金髪の頭。そして白い洗面台を染めた、どす黒い赤。


「可南さん!? 何してるんすか!!」


 状況を理解する前に身体が動いていた。可南が握りしめていた刃物を力任せに引ったくり、床へ投げ捨てる。そばにあった手拭きタオルを乱暴に取るとすぐさま細い手首にきつく巻きつけた。


 その勢いのまま、力が抜けたようになっている可南の身体をグッと自分の胸元へ抱き寄せると、ツンと鼻を突くアルコールの臭いがした。


 普段のこの人はザルだ。程よく酔っている様子も今まであまり見たことが無い。けれど、だらりと頼りなく龍の胸に預けられた頭、開いているのに焦点がどこにもあっていない瞳。

 俺も、世界も、自分自身のことすら認識していないようなこの状態は、泥酔状態によく似ていた。


(酒だけじゃ絶対こうならない。何か、変なものでも合わせて飲んだ……?)


 一瞬思考に沈みそうになったがハッとして、考えるのは後回しにした。ひとまず床に可南を座らせ他に傷がないか、衣服の上から手探りで確認する。


「可南さん?俺です、分かりますか?龍です!」


 何度も声をかけるが返事はない。ただ、いつも時計やリストバンドで厳重に隠されている手首の皮膚には、今日つけられた新しい傷のさらに下に、幾重にも重なるようにして、白く盛り上がった古い傷跡が、醜いミミズ腫れのように連なっていた。


「……も……、……る、し」


 可南の薄い唇が何かを発した。

 龍は耳を近づけ、その吐息に混ざって消えそうな声の、意味のある言葉を捕らえようとする。


「……ゆる、して。……もう、……て」


 『泣きわめく』でも『泣きじゃくる』でもない。もしかしたらこれは『泣く』とも違うのかもしれない。


 静かに流れる涙も、阻まれた行動の代わりに呪文のように繰り返される言葉も、こんなにたくさんのことが起きているのにこの人からは激情らしきものをなぜか感じない。出てくるものを、ただ出し続けているだけ。その表現が一番合ってる気がした。


 理性が消し飛んで初めて、内側に押し込めていたものを外に出せる人間がいる。可南がまさにそのタイプなんだ、と龍は思った。


 いつも笑顔で飄々として、皆を牽引する有能な指導者。


 その確かな光で周囲を照らし続ける「月」の、誰の目にも触れない裏側の荒れ地を、龍は今、電球の光の下で突きつけられていた。 


◆◇◆◇


「死にたいんですか……?」


 それから十分ほど手首を圧迫し続け、可南の浅かった呼吸が少しだけ落ち着いた頃。龍が絞り出すように問うと、ようやくその声が鼓膜に届いたのか、可南は小さくゆるゆると首を振った。


「生きてたい……明日も……これからも。だから……こうするしか、ない……」


 まだ呂律が回らないのか、可南は一語一語を、ゆっくりと抉り出すようにして紡ぐ。


「なん……っ、何言って」


「わかってる。自分がおかしい事言ってるのは……わかってるんだ……。でも、ただ、生きてたい」


 龍は言葉を失い、拳を握りしめた。


(訳がわからん。全っ然おかしいだろ、どう考えても駄目に決まってる……!! 咎めて、怒鳴りつけて、こんな馬鹿げたこと二度とやるなって、言って……でも──「生きるためにしてる」って言った人間からそれを奪うのは、死ねって言ってるのと同じか??それは……絶対にアカンやつよな??)


 数秒の激しい葛藤の末、龍は自身の感情が漏れ出ないように長い息を吐き出した。


「……そう、ですか」


 言いながら、龍が手首に当てていたタオルを外す。血はもうほぼ止まっていた。


「生きるのに必要だって言うなら……。俺には全っ然わかりませんけど、貴方がそう言うなら、俺はもう咎めません」


 可南が、驚いたようにかすかに目を見開いた。


「た・だ・し! やることはやらせてもらいます。絆創膏どこですか?」


「……リビング……棚の、いちばん下の……籠」


「そのまま動かないで待ってて下さいよ!」


 大柄な体を揺らし、龍はドタドタとリビングへ駆け込んだ。大きめの救急絆創膏を数枚持ってくると可南の前に膝を突き、これ以上傷口が開かないよう丁寧に優しく処置をしていった。


 その最中ふと見ると、可南の白いシャツの袖口に少し目立つ赤黒いシミが広がっていた。


「これ、汚れたから替えましょ」


「……いい」


「駄目です。ベッドが汚れます。男同士でいまさら恥ずかしいとかないでしょう?ほら、手伝いますから」


 有無を言わさず、龍は可南のシャツの裾を掴んで上へとたくし上げた。可南は一瞬、身体を強張らせて抵抗の素振りを見せたが、薬と酒で痺れた身体では抗いきれなかったようで、すぐに諦めたように力を抜いた。


 頭と腕を抜こうとシャツを完全に剥ぎ取った、その時。

 龍の視線が、露わになった可南の背中に釘付けになった。


(こんな所に火傷の痕? いや、でもこっちは違う……これは、まるで──)


 ──虐待の傷。


 タバコを押し付けられたような丸い焼印。何かに強く打ち据えられたような、線状の古い傷、歪な模様の痣の痕。一つや二つではない。その狭い背中の肩から腰部分まで、無数に散りばめられた暴力の痕跡。


 龍は思いもよらない光景に、一瞬で頭の血が引いていくのを感じ、息を呑んだ。声を出さなかったのは、男の意地とも言える奇跡だった。


 ずっと可南の言葉の端々に感じていた異常なまでの自己犠牲精神、自らへの無頓着さ、そして「得体の知れない引っかかり」の正体を、龍はこの夜完全に理解してしまった。


 何も見なかった風を装い、若干ぎこちなくなってしまった手つきで新しい衣服を頭から被せる。

 そして、ボタンを留め終えた後、龍は本当にただ、衝動のままに可南の身体を再びその太い腕で強く抱き寄せた。


 動揺する自分を落ち着かせたかったのか、それともそれ以外の意味が、例えば同情や哀れみにも似た情念があったのかは今の龍には分からなかった。


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