10話 嵐は突然に
静かなオフィスに突如として荒々しい怒鳴り声が響き渡る。
元々来客の多いオフィスではあるが、ここまで感情を剥き出しにして乗り込んでくる者は滅多にいない。デスクにいた社員たちの視線が一斉に出入り口へと集まった。
「勝手に困ります。まずは落ち着いてお話を──」
受付ブースの近くにいた須藤凪が物怖じせず対応を試みていた。しかし、完全に頭に血が上っている壮年の男──クライアントの石丸は、聞く耳を持たずに凪を睨みつけた。
「君らじゃらちが明かないから話してもしょうがない! 時間が無いって言ってるだろ。こっちは契約解除も視野に入れて来てるんだからな! 稲田君というのはどこだ?」
「で、ですから今……しかるべき者が対応しますので、お待ちくだ──」
「あぁ?!だから!! 君じゃ意味が無いんだ!」
激昂した石丸がさらに一歩詰め寄り、凪が思わず怯んだその瞬間だった。
二人の間に滑り込むように突如人影が割って入る。凪の目の前には、見慣れたある人物の背中があった。
「旭さん……」
自分と変わらない、むしろ少し小柄な体格にも関わらず、そこに漂う空気は毅然としていて相手の威圧感をいとも簡単に撥ね退けている。むき出しの敵意から庇うように遮ってくれたその背中に、凪は安堵の息を漏らした。
「うちの者が何か失礼を? 少し行き過ぎじゃありませんか、石丸さん」
可南の薄紅色の瞳は冷静に相手を見据えていた。石丸は毒気を抜かれたように一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに不満をぶちまけ始める。
「……居るじゃないか、旭君。いつまでもダラダラやり取りしてられんから直接寄った。この前のソフトの追加機能の請求は何だあれは!! 話が違うじゃないか、当初の予定よりよっぽど高額だぞ!」
「今、開発チームの担当責任者を呼びますのでこちらへ。木村さん、国府田さんをA室に呼んで」
木村がすぐに内線へと手を伸ばす。可南は表情ひとつ変えずに石丸へと向き直った。
「石丸さん、私も内容は把握してますので同席させて頂きます」
石丸はまだ納得のいかない様子で、腕を組みながら憤慨を続けた。
「大体、ウチの担当者が承諾はしたみたいだが、それも強引に進めたんじゃないのか?! 桁が違うんだ、桁が!」
「そう仰るのも分かります。何度かメールで書面を交わさせて頂いていると思いますが、そちらの技術担当者様とは……」
可南は穏やかに、しかし反論の隙を与えない口調で石丸を促し、そのまま奥の会議室へと誘導していった。
◆◇◆◇
「平気? 凪さん。よく食い止めてたね」
張り詰めた空気が去った受付で、銀フレームのメガネをクイと押し上げながら桐生篤史が声をかけてきた。
「あ、はい。でもちょっと……圧倒されてしまいました」
「費用請求へのクレームか」
篤史は会議室のドアを見てフッと息を吐く。
「始めにどれだけクライアントと認識を合わせてもズレと誤認はある。あそこは特に仕様の変更と追加も多いし、システムなんて実際にやってみなきゃ分からない所もあるしね」
「大丈夫ですかね、国府田さん達……」
「大丈夫。今の件、旭さんが事前に把握してたでしょ?」
篤史のその言葉に、凪は目を瞬かせた。
「……旭さんって、やっぱりちゃんと『上司』なんですね」
「凪さん、それは……ちょっと酷いな」
篤史は困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべる。
「君はここに居る旭さんしか見たこと無いかもしれないけど、あの人は対外的にはちゃんとするし、外ではいつもあんな感じだよ」
「だって普段とのギャップが凄いじゃないですか! 敬語もちゃんと使えるし、あの雰囲気の変わり方見ました?!面倒事があっても、もっとこう……ゆる~くヘラッと受け流すのかと思ってました」
「旭さんを何だと思ってるの、凪さん……。それじゃウチの信用に関わるよ」
「でも」
凪は、先ほど自分の前に立ちはだかった背中を思い返す。自分と数分違わない体格のはずなのにその背中は少し大きく見えた気がしていた。
「こういう時、ちゃんと部下を庇ってくれるんですね。僕がここに来るまで見て来た上司なんて、自分の保身の為に部下を平気で突き出したり、貶めたりする人しか居なかったので……」
ぽつりと溢れた凪の言葉に、篤史は一瞬だけ真剣な眼差しを向け、それからすぐに優しい笑みを浮かべた。
「……まぁ、やる事はやってくれるよ、あの人は。色々な顔があって興味深いよね」
◆◇◆◇
一時間ほどして会議室のドアが開き、石丸が心なしかスッキリとした顔で出てきた。帰り際にオフィスを見渡すように視線を走らせると軽く会釈のような仕草をして帰っていった。
それを見送った可南が受付に戻ってくるなり、凪はパッと表情を明るくして駆け寄った。
「お疲れ様です、旭さん! 結局、納得して頂けたんですか?」
「あぁ、うん。そうだ、良かったらコーヒー1杯付き合ってくれない?」
「あ、はい!」
そのまま2人連れ立って歩き始めると、可南は少し肩の力を抜きいつもの調子に戻って話し始めた。
「大体、こっちは追加作業が発生した時点でちゃんと承諾を受けてやってるのに、向こうの社内での調査検討が不十分過ぎるんだよ。見積もり以上の費用を負担する気が無いのなら、その場で明確に意思表示するべきだ。……まぁ、最終的には支払いに応じてもらえたけどね」
「さすがですね。でも、難しいですよねぇ……。納期が迫ってたら、見積もりを出すのと追加作業が同時進行になっちゃうじゃないですか」
「そうなんだよなぁ。今後は開発チームとも連携して、あらかじめ限度額を明示してもらう形にするかな」
「その方が、こっちのデスクでも調整が出来そうですね」
「うん、国府田さんと相談してみる。それより凪さん」
可南は足を止め、凪の目を真っ直ぐに見つめた。
「さっきの対応、すごく良かった。さすがタフだよね。相手があれだけ声を荒らげてたのに礼を欠かさず対応してくれたから、俺が入った後もすぐに場が収まった。驚いたと思うけど、石丸さんも根は悪い人じゃないから」
予想外の真っ直ぐな称賛に凪は気恥ずかしそうに頭をかいた。可南はクスリと笑って続ける。
「でも、じゃあ良い人かって言われると「うーん」って所なんだけど……喜怒哀楽が全部表に出るから小細工や陰湿な事はして来ないし、ある意味分かりやすい人だよ」
「はい。でも、僕あんなに上司っぽい旭さんを見たの初めてでした」
「っぽいってなに?何でかなぁ、相変わらず凪さんは俺の認識が雑だよね?」
可南が呆れたように小さく笑うと、凪は嬉しさを噛み締めつつ深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「……? うん。そのタフさはここでは貴重だ。これからも期待してる」
不思議そうに小首を傾げながらも、可南は満足そうに自身の部屋へと戻っていく。その背中を見送る凪の表情には、確かな誇りと充実感が浮かんでいた。
理不尽に怯え、ただ消費されていた日々。誰かの身代わりにされるだけの場所はもう過去のもの。
自分の行動を正当に評価し、守り、そして必要としてくれる人がいる。キーボードを叩く音が心地よく響くこのオフィスこそが、今の彼にとって何にも代えがたい大切な居場所だった。




