【第48話】止まっていた僕らが、明日へ踏み出す前日譚
意識がはっきりとし始め、
外傷と眠りすぎによる鈍い頭痛に苛まれながらも、
重い身体を引きずれるようになったのは、あの日から三日が経過した頃のことだった。
その間の記憶は、霧の向こうにあるように朧げだ。
両親や陽向と言葉を交わした断片的な記憶はあるが、何を話したかという細部までは把握できていない。
病院での再診の結果、幸いにも後遺症の心配はなく、
あと数日安静にしていれば登校の許可が下りることになった。
陽向から、クラスや部活の現状を聞かされた。
演劇から朗読劇へと内容が変更されたクラスは目に見えて意気消沈し、
その不満の矛先はティボルト役を務めたあの男子に向けられたのだという。
昨日登校した彼は、クラスメイトたちから集中砲火を浴び、
その空気に耐えきれず早退。今日も欠席しているのだとか。
それを話す陽向は、
「自分のせいでもあるから」と彼を擁護しようとしたが、
坂口に止められたらしい。
どこまでも自罰的な彼女らしい振る舞いだが、それに関しては俺も坂口に賛同した。
確かに度を超えた脚本ではあったが、それを受け入れ、
その場にいたのは陽向だけでなく、クラス全員なのだ。
罰を受けるならクラス全体であるべきで、陽向一人が不要な軋轢を背負い込む必要はない。
一方、部活動は沙耶ちゃんを中心に驚くほど順調に動いており、準備はほぼ完了しているという。
あの告白以降も沙耶ちゃんは進捗報告のLINEを欠かさず送ってくれていた。
告白のことなどなかったかのように、普段通りに接してくれる彼女の存在が、今の俺には何より心強かった。
「学校行けるの、どのくらいになりそう?」
もう大丈夫なのだが念のため、光量を落とした部屋で陽向が気遣わしげな視線を向けてくる。
「無理に動かなければ明日にでも行けるけど、早くても明後日か、前日かな」
部屋に閉じこもっているのがもどかしい。早く部室へ行って、皆の顔が見たい。
「もう一日くらい休まないとダメ。今だって無理してるの分かるよ」
「無理ってほどでもないよ。ただ、口や身体を動かさないと、頭が忘れちゃいそうでさ」
「気持ちは分かるけど、駿くんは何でも自分で抱えちゃうんだから。普段から無理しすぎなんだよ、もう」
腰に手を当てて怒る素振りを見せる陽向。
けれどその瞳には、優しさと呆れが混じり合った、とても懐かしい色が滲んでいた。
「ねえ、駿くん」
「んー?」
「怪我した日にさ、ここで話したこと。覚えてる?」
「……なんだっけ。あの日のことはあまり覚えてない」
「ほんとに?」
陽向がぐっと顔を寄せ、俺の瞳を覗き込んでくる。
夏の日ほどではないけれど、その距離の近さに、
頭の芯が喜びを伴う痛みで痺れる。
「本当だってば。こんなことで嘘をついても仕方ないだろ」
「なら、いいけどね」
柑橘と甘い香りが遠ざかる。
その微かな名残に、思わず手を伸ばしそうになる自分を制した。
「なんでそんなこと聞くのさ」
「別に。あれをカウントされたら嫌だなって思っただけ」
「意味分からない」
「分からなくていいの」
嘘だった。朧げではあるが覚えている。
泣いている陽向を見るのが悲しくて、笑わせたかった。
笑った顔がとても可愛くて、抑えていた気持ちが溢れてしまったのだ。
言葉の輪郭しか掴めていないことへの不安と、何よりの照れくささから、俺はただはぐらかすことしかできなかった。
◆
文化祭の前日、ようやく病院の許可が下りた。
先に行ってもいいと言ったのだが、
「心配だから」と離れない陽向に根負けし、二人で登校した。
教室に入ると、普段はまともに話したこともない連中――
修学旅行や配役が決まった後に悪意を向けてきていたクラスメイトたちが、
手のひらを返したように同情の声をかけてくる。
それが、ひどく鬱陶しく感じられた。
そんな空気に陽向を晒し続けたくないという、小さな独善。
俺は昼休み、彼女を中庭へと連れ出した。
「急にどうしたの?」
「今日はここで飯食べよう」
「それはいいんだけど、どうして?」
「俺がいない間も、ずっとあんなだったのか」
「……うん。璃奈や大野くんといたから平気だったけどね」
「文化祭が終わったら、また戻る。今日だけでも羽を伸ばして」
「ありがと。っぷはぁ、確かに肩の凝る空気だよね、あれは」
「あんなのに陽向を晒し続けたくないから」
「ちょ、直球だね。今日の駿くん、変だよ」
「別におかしくなったわけじゃないよ。ただ、最近思ってたんだ」
「何を?」
「今までは誰も傷つけたくなかった。だから自分を出さずに、周囲に溶け込むだけだった」
「それが駿くんの優しさだと思うよ」
「それだけじゃダメなんだ。結局誰かを傷つけるし、今回みたいに自分も傷つく」
「あれは誰も駿くんを責められないし、そういうことなら私も同罪」
「部屋で休んでる間さ、今までのことを振り返ってたんだ」
「うん」
「最初は悠斗だった。止まって、腐りかけてた俺たち四人を壊してくれた」
「そうだね。私も本当の気持ちに気づくきっかけをもらった」
「次は坂口だ。俺は直接は知らないけど、陽向と坂口で何かあったんだろ?」
「色々あったよ。泣かされて、背中を押して。璃奈が親友でよかったって思った」
「それに沙耶ちゃんと陸。言うまでもないよね」
「二人とも、強くてかっこよくなった。私なんて、あっという間に追い抜かれちゃった」
「俺たちだけが、同じところでいつまでもグルグル回ったままだった」
「うん。気持ちの変化があっただけ。それは成長なんかじゃなく、止まってるだけ」
「もう臆病なのは終わりにしたい。でも、俺だけじゃたぶん無理」
「私も、一人じゃ無理かな。そういう生き方してこなかったから」
「だから、二人で強くなっていこう。まだ『恋人』って言ってあげられないのは、かっこ悪くてごめん」
「いいんだよ。かっこ悪いのは私も同じ. 今から皆を追いかけよう」
傍らに立つ大欅は、徐々に葉の色を落とし始め、
密に重なり合った隙間からわずかな木漏れ日が差し込んでいた。
その柔らかな光が、まるで新しい一歩を踏み出す俺たちへのエールのように感じられて、少しだけ誇らしかった。
◆
放課後。職員室に寄り、担任に一日の体調を報告してから部室へと向かった。
扉を開けると、既に準備を進めていた沙耶ちゃんが俺の姿を認め、
遠慮がちに顔を伏せながら、勢いよく俺の胸に飛び込んできた。
「先輩、無事でよかったです」
いきなりの展開に、思考が追いつかない。心配をかけていたのは自覚しているけれど、俺、彼女を振ったはずだよな……?
呆然と立ち尽くしていると、部室の奥から大きな声が響いた。
「おー、沙耶ってば大胆! 見せつけてくれるじゃないの」
坂口の茶化すような声に、沙耶ちゃんは一目散に俺から離れると、今度は作業をしていた陽向にしがみついた。
「だ、だから引かれるって言ったじゃないですか。も、もう二度とやりませんから」
「もう、駿くん。もっと沙耶ちゃん可愛がってあげなきゃダメじゃない」
「うっわ、駿先輩. まじでクズっスね」
「ああ。これは間違いなくクズの所業だな」
「お、お前ら……何言ってんの?」
開いた口が塞がらない。肺が必死に空気を求め、心拍が跳ね上がる。
「沙耶さん、やっぱりこんなクズ先輩より俺の方がいいって」
「ごめんね、それでも私、駿先輩が好きだから」
陽向の腕に収まったまま、沙耶ちゃんがさらりと爆弾を落とす。
「うんうん。まだ陸くんには沙耶ちゃんを渡せないな」
陽向も同調し、沙耶ちゃんの頭を撫でながら陸を攻撃する。
「不条理だ! 理不尽だ! 誰か俺を慰めてくれる女の子はいないのか!」
「俺でよければ慰めるぞ」
「じゃあ悠斗先輩、せめて女装してくださいよお」
あまりの展開に、意識が遠のきそうになる。
俺がいない間に、陽向と沙耶ちゃんの間で一体何が起きたんだ。
「ほら、西村。沙耶と陸の傑作、見てあげないと」
坂口に背中を叩かれ、俺は改めて部屋を見渡した。
そこには、俺が心の奥底で描き続けていた、
『あの夏の残響』が具現化されていた。
「あと一枚、用意するだけです。これは先輩がやっていただけませんか?」
差し出された透明なアクリル板。
そこには、あの日に俺が撮った沙耶ちゃんの写真があった。
「まさか、あの日に西村がこんなにいい写真撮ってたなんてね」
「ああ。俺は素人だから分からないけど、これは本当にいいと思う」
「私、それを見た日。ショックで家で泣いちゃったもん」
「これ、俺もデータ欲しいんですけどね。頼んでももらえないんですよ」
「は、恥ずかしいからダメ」
俺の写真を見て、皆が喜び、笑って、くれて。
そんな光景、今まで、一度も。
体から力が抜けて、膝が床につく。
視界が、歪む。
「ほら、駿くん。泣いてないで、部長の務めを果たしなよ」
今は、無理だ。涙が次から次へと溢れ出し、手が震えて止まらない。
せっかくの写真を、しわにしてしまいそうだった。
「先輩。ゆっくりでいいですから。もう残りの作業はこれだけですから」
抜けていく。人物が撮れない。人を見ることができない。
俺の心を縛り付けていた、鋭い『針』が。
涙と一緒に、一本、また一本と。
皆はただ優しく、俺が「部長」に戻るのを待っていてくれた。




