【第45話】臆病な僕の、無慈悲な暗転
部屋に戻る。
電灯を点ける気力も起きず、ドアを背に座り込んだ。
暗がりに目が慣れていくにつれ、思考だけが泥のように重く沈殿していく。
どうして、こうなった。
誰も傷つけたくなかっただけなのに。
陽向のことが好きだと、これが恋愛感情なのだと気づいた。
夏休み最後の日は、すべてを受け入れるつもりでいた。
けれど陽向が俺に向けてくれる愛情はあまりに大きすぎて、あまりに幼く感情的だ。
俺はどうなのだろう。
新学期以降は他に目もくれず、劇の練習効果も相まって好意を全く隠さなくなった陽向を、これからずっと真正面から受け続けられるだろうか。
中途半端な覚悟で受け入れることは、結果として陽向を深く傷つける選択になりかねない。
初めての感情に戸惑いすぎて自分の感情が彼女と釣り合うものなのか、確信が持てなかった。
それなら、決定的に傷つける前に身を引いて陽向の傷を最小限に防いだ方がいいのではないか。
恋愛感情というものを知らなかったからこそ、そんな不確かな状態で沙耶ちゃんの好意を踏みにじりたくなかった。
クラスの準備に時間を割かなければならず、彼女に責任を押し付ける形になってしまった。そのストレスが彼女を告白へと突き動かしたのだろうか。
部に沙耶ちゃんが残ってくれたのは結果論に過ぎない。
俺が好きなのは陽向だと自分に答えを出した。
告白された以上、保留にすることは余計に彼女を傷つけるだけだ。
自分のための行いとはいえ、『あの夏の残響』を写真部を皆の思い出の場所にしたいという願いは俺の身勝手な押し付けだったのだろうか。
いつか坂口に張られた頬の熱い痛みが、暗闇の中でぶり返す。
あの時は陽向の気持ちを蔑しろにしていた。
だから今度はそんなことが起こらないよう注意していたつもりでいた。
またあのような過ちを犯せば、今度こそ全員に愛想を尽かされるだろう。
そうなれば文化祭どころか、写真部という居場所そのものが台無しになる。全員を傷つけてしまう。
結局俺はどこまで行っても人を傷つけることが怖い臆病者だ。
部長だとか担ぎ上げられても、そんな資格なんて最初から持ち合わせていなかったんだ。
◆ 《紡木陽向》
演劇の稽古。悪ノリしてしまった結果、脚本は書き換えられ演出は過剰なものへと変質していた。
何度か戻そうと言ったけれど、担当の子は「絶対にこっちの方が面白い」と聞き入れてくれず周囲の賛同に押し切られてしまった。
私をやたら敵視し修学旅行の時に駿くんを侮辱したあの子が許せなかった。
だからといって挑発的に動いてしまったのは私の落ち度だ。
駿くんにも迷惑をかけている自覚はある。彼のことになるとどこかで制御が利かなくなる。
幼馴染としての箍を外して、今まで溜め込んできた情念が、自分でも制御できない。
劇の中盤。ジュリエットの従兄であるティボルトとロミオの決闘シーン。
今までは決められた動きを流すだけだったけれど、今日は本番に向けて動きを固めることになった。
ティボルト役の男子は演劇部から借りた剣を振り回し、打ち合わせにない軌道を描いた。
「あーあ、今まで散々ジュリエットと見せつけ合ってくれちゃってな、西村よぉ」
男子は頭上から、剣を思い切り振り下ろした。
カアァァァン、と。
鼓膜を刺すような高い音が響く。
駿くんが咄嗟に合わせたけれど勢いを殺しきれない。
剣は駿くんの頭部に当たり、砕け散った。
「駿くん!」
短い悲鳴が教室に落ちる。
駿くんは崩れるように倒れ、床に鮮血が広がっていく。
慌てて駆け寄りその傍らに膝をつく。
息はある。けれど呼びかけに応じる気配がない。
「駿くん! 駿くん!」
何度も名前を呼ぶけど返事は返ってこない。
「駿くん!」
「先生を呼んでくる!」
璃奈が弾かれたように教室を飛び出していった。
「……嘘だろ? そこまでするつもりは……なかったんだ」
「馬鹿野郎! 小道具って言っても竹光だ! 本気で殴れば怪我させて当たり前だろうが!」
男子と大野くんの怒鳴り合いが、うるさい。
私は泣きながら呼びかけ続けることしかできなかった。
◆
永遠にも感じられる地獄のような時間。
担任が到着し駿くんの容態を見た後、救急車の手配をした。
私と璃奈に変化が起きたら報告するよう厳命し、周囲への事情聴取を始めた。
駿くんの意識は戻らず、唇がぶるりと震える。
喉元から、声にもならない掠れた音が漏れた。
「……ひなちゃん」
「駿くん! 大丈夫!」
思わず抱きしめそうになった私の肩を、璃奈が強い力で制した。
「陽向! 今は動かしちゃダメだって!」
うるさい。倒れた人をみだりに動かさないなんて、いつもなら分かってるんだ。
でもこんな状況で冷静に振る舞えるなんてできるわけないじゃないか。
「……ひなちゃん」
幼い頃の呼び名で私を呼ぶ駿くんに、心が掻き乱される。
「駿くん、私はここにいるから。大丈夫だからね」
「ひなちゃんがね……悠斗のことを好きになったのなら、僕は誰も好きにならなければ、いいんだよ」
え? 何を言っているの、駿くん。
「そうすればね、誰も傷つけなくて、済むから」
「駿……くん?」
閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
けれど教室の電灯を嫌がるように目を細め、私の方へ顔を向けた。
「ひなちゃんは、きれいだね。もっといい写真、撮りたかったなあ」
駿くんは意識は回復してきているかに見えるけど、身体を動かすまでには至っていない。
ピントの合っていない瞳。
私は自分の頬を強く叩いた。
今は余計なことを考えず、駿くんのために最善を尽くさなければならない。
「今、救急車を呼んでるからくれぐれも動かすなよ。練習は中止だ。事情を聞きたいから委員長と現場を見ていた何人かは残ってくれ。あとは下校しろ」
担任の声が響く中、私はスマートフォンを取り出し震える指で画面を叩いた。
「駿くんのご両親には、私が連絡を入れます。救急車にも同乗させてください。救急員の方に経緯を説明します」
担任は腕を組みしばらく考える素振りを見せると短く首肯した。
「家が隣だったか、分かった。診察の結果は必ず学校に報告を入れるように」
救急車が駆けつける頃、駿くんは朦朧とした意識で動きを見せた。
けれどその場で激しく嘔吐し、支えなしに立ち上がろうとして失敗した。
先生に制止されても、駿くんは立ち上がろうとすることを止めない。
私は駿くんに縋りつきたい思いを振り切り、その場を離れて救急員の担架を教室まで誘導した。
◆ 《西村駿》
自分の置かれた状況が輪郭を持ち始めたのは、救急車で搬送されている途中だった。
身体は横向きにされ、首ごとストレッチャーに縛り付けられている。
胸には電極、腕には血圧計のバンド。指先からも管が伸びている。
頭部には重い鈍痛が走り、ガーゼか何かで圧迫されている感触が伝わってくる。
目の前には俺に問いかける救急員と、心配で顔を歪ませ真っ赤な目をした陽向がいた。
「ごめん、陽向。心配、させて。もう、大丈夫だから」
チカチカと瞬く視界。思うように動かない口。
それでも強引に言葉を紡ぐ。そのたびに頭に鈍い痛みが走る。
陽向の表情がわずかに和らいだのを確認して、俺は救急員の質問に対し現状で理解できている範囲の回答を返した。
病院に着き、幾つもの検査を重ねた結果、出血と嘔吐を伴う脳震盪だった。
当たりどころが悪ければ、もっと深刻な事態も想定できたという。
幸いにも精密検査で異常は見られず、数日間は自宅で安静という診断が下された。




