【第44話】石田沙耶:選ばれなかった彼女の、最初の聖戦
読書は、一日きっちり百ページと決めている。時間にすると大体二時間。それが私の毎日。
どんなジャンルの話でも、たとえその物語が最高潮を迎えていても、百ページ以上は読まない。読み切ったら終わりにするのではなく、百ページに満たないなら、余韻を味わいながら次の物語を捲る。それが私のルーティン。
けれど今日は、ページを捲る手が全く動かない。文字に目が吸い付き、脳内に世界が広がるいつもの感覚が、どこにもなかった。
網膜に焼き付いているのは、先輩たちの練習風景。二人があうんの呼吸を見せていたのではない。陽向先輩が、ただただ駿先輩を強く渇望する、剥き出しの情念。
私はいつも陽向先輩に圧倒されてきた。そして、その度に憧れてきた。今までは、それで良かった。合宿の夜に陽向先輩自身が言っていたように、駿先輩に向ける気持ちを先輩自身が理解していなかったから。
それなのに、たった半月。陽向先輩が部活に来なくなった夏休みの後半。あの人は私を置いて、駿先輩を誰も届かない遠い場所へと連れ去ってしまおうとしている。
ズルいと思いたかった。陽向先輩が悪い人なら、多少の心の霧は晴れるだろう。でも、そんなことを思えるわけがない。
一人の男性に身を焦がすほどの想いを向け、その慈しみのすべてを、深い情愛として捧げる。私の初恋の恋敵は、悔しいほどに私の憧れそのものだ。やっぱり、少しズルい。重ねてきた歳月なんて関係なく、想いの質量で初めから勝負にすらなっていなかったのだ。
だけど、このまま何もせず、今まで積み上げてきた初恋を終わらせたくはない。私が駿先輩に恋をした事実を、消えない傷跡として残したい。私がいて良かったんだと、いつか思ってもらいたい。
残された選択肢は、もう多くない。せめて後悔の残らないよう、私は私にできることをしよう。
◆
翌日の放課後。部活を終えた私は、河川敷に一人座っていた。以前、駿先輩の写真を撮ったあの場所で。
先輩には「練習が終わったら来てください」とLINEを残してある。
九月下旬。夕方になると気温は急激に下がる。沈みきらない落日が水面に細く伸び、川面だけが残光を湛えていた。何層かに分かれた景色は、残酷なほどに綺麗で。
思わずスマートフォンを向け、その風景を切り取ると、冷ややかな風に身を震わせる。
遠くから走る足音が聞こえ、段々と近づいてくる。足音と共に、切迫した息遣いも伝わる。振り向かなくても、誰かは分かった。
「ごめん……沙耶ちゃん、待たせたっ」
「いえ、突然呼び出してしまって、すみません」
肩で息をする先輩が手を差し出すと、そこには温かいココアが握られていた。
「寒かっただろう。飲んで」
「ありがとう、ございます」
その気遣いが、私をどこまでも幸福な予感で包んでくれる。ココアはとても温かくて、甘くて、私の心を溶かしてしまいそうだった。
先輩も隣に座り、コーヒーを口にする。少しの間、心地の良い沈黙に身を委ねていた。
「部活、何かあった? 部室も見てきたけど、すごい順調で驚いた」
この時間がずっと続いて欲しかった。けれど、もう終わりなのだ。
「いえ、それもありますけど、今回は別の話です」
「そっか。もう外は寒いから、風邪を引かないうちに済ませるか、移動してもいいよ」
優しく、正面から私を見つめてくれる瞳。私は勇気を振り絞る。
「……なら、温めてください」
一旦立ち上がり、先輩の背後に回る。両腕を先輩のお腹に回し、顔をその広い背中に押し付けた。
これからはきっと、目を見て話せないだろうから。
「ど、どうしたの。沙耶ちゃん」
「好きです。今まで先輩の厚意に甘えて、わざと直接言うことを避けてました」
先輩の体温が伝わってきて、全身に高揚感が集まってくる。
「すみません。もう”友だち”では我慢できません。先輩のことが、大好きなんです。私を、恋人に、していただけませんか」
先輩の身体が、一瞬で強張る。困らせてしまっただろうか。でも、私の気持ちを伝えるのは今しかないと思ってしまったから。すみません。
「……ごめん。沙耶ちゃんとは、恋人になれない」
これ以上ない明確な拒絶。目の奥が熱くなり、指先から熱が奪われていく。
「本当は文化祭が終わったら、俺の方から言うつもりだったんだ。言わせてしまって、ごめん」
私は黙って頭を振った。今喋ると、声が震えてしまうから。
「陽向が好きなんだって、夏休みの終わりに気づいた。でも文化祭を前にして、自分勝手に誰かを振り回したくなかった」
腕に、自然と力がこもる。先輩の心臓の音が、背中越しに私の胸をノックしてくる。
私の涙で、シャツが濡れてしまっている。でも、こんな形でも先輩に痕が残せるなら、それでいい。
「陽向と恋人になるかまでは分からない。俺にはあいつの感情を受け止められる自信が無いから。でも、陽向が好きなんだ。ごめん」
「……今だけ、少し、だけ、このままで」
それ以上は涙が溢れて、声が震えて、続かなかった。
今まで先輩に向けてきた『好き』を全部涙に変えて、先輩の背中に押し付けた。
涙が枯れるまで、どれだけかかったかは分からない。その間、先輩は何も言わずにいてくれた。
私の初恋は、思った以上にあっけなく終わってしまった。
なら、今度は”ただの友だち”として、先輩の力になろう。前を向いて、先輩に迷惑をかけないように。
すぐに気持ちを切り替えるのは難しいかもしれないけれど、この想いは、いつか必ず色褪せさせよう。
傷つくことを前提に踏み込んだのは私だ。先輩は最初にストップをかけてくれていたのだから。
「先輩」
声をかける。
「もう、大丈夫なの?」
「はい。それで、お願いがあるのですが」
先輩の枷を、私が外そう。
「私に、写真部のことを任せてくださいませんか?」
◆
家に着いてから再び泣き崩れ、そのまま寝入ってしまった翌日。私は重い足取りのまま学校へ向かった。
挨拶をしてくれる友人にも、できるだけ普通に接した。授業はあまり身に入らなかったし、食欲もなくて昼休みは部室で過ごした。
放課後。グループチャットには大野先輩と坂口先輩から、準備で来られないとの連絡が入っていた。中原くんと二人だけで、作業を始める。
「駿先輩から、私の判断で動いていいって言われたから、止まってたところも進めちゃうね」
いつも通りに言えたつもりだった。
「沙耶さん、駿先輩と何かあった?」
けれど、中原くんの第一声で、私の出鼻はくじかれた。
「……え? 別に、何も」
「誤魔化さなくていいよ。今日、様子おかしいの見え見えだったから」
まあ、そうだよね。露骨に元気がなかったから、伝わってたかな。
「ああ、まあ、うん。駿先輩に、振られちゃった」
できるだけ明るく努めて、顔に薄い笑顔を貼り付ける。
「もう、いいの?」
私の下手な演技など通じず、真剣に聞き返される。
「はっきり好きな人が出来たって言われたからね」
この程度で諦めるのかと言われているようで辛くもなるが、今の考えがまとまった先輩に、何度気持ちをぶつけようと、関係が悪化するだけ。
「そう。なら、もう一度言うけど。俺は沙耶さんのこと、まだ好きだから」
言葉を失う。今はそういう話をあまりしたくないのに。
「振られた直後に、こういう話は良くないってのは分かってるんだ」
鋭いよね、中原くんは。
「なら、私がまだ先輩のことが好きで、諦めきれてないのも分かるよね」
言葉にわずかな怒りを込める。好意を持ってくれるのは嬉しいけれど、今はそんな気分になれない。
「分かってる。だから、今はこれで終わりにするけど」
中原くんは、私を真っ直ぐに見てくれる。
先輩はいつだって私を逸らさずにいてくれた。だから、私もせめて、そのくらいはやらなければいけないんだ。
「沙耶さんが気持ちの整理がつくまで、俺は待つよ。俺の気持ちは、沙耶さんが俺のことを嫌いになるまで変わらない」
ありがとう。でも、今は。
「分かった。じゃあ、作業しよっか」
「ああ」
ごめんね。
◆
この前読んだ続きから、栞を外して本を開く。やはり文字は世界に投影されない。
代わりに浮かぶのは河川敷での光景。先輩の顔は見られなかったけれど、言葉だけは覚えている。
『陽向が好きなんだって、夏休みの終わりに気づいた。でも文化祭を前にして、自分勝手に誰かを振り回したくなかった。でも、陽向が好きなんだ。ごめん』
この恋を通じて、私なりに理解したことがある。自信は成功と根拠でつくものだ。私が髪を切って、言葉遣いを改めて自信を身に付けたように。
本に再び栞を挟み、ノートPCを立ち上げる。フォルダの奥ではなく、デスクトップに貼り付けて、何度も見てきた一枚の画像データ。
合宿中に、先輩が撮ってくれた、川辺に写る人物写真。
十一月の終わりに開催される「秋光フォトコンクール」。
予算の関係で、出すなら部ではなく個人でという話になっていた。
これを、先輩の名義で出してしまえ。それが、私が先輩に残せる最後の傷跡。
コンクールってタイトルが必要だっけ。
モニター越しに考える。
うん、決めた。
『あの日、私を見てくれた人へ』




