【第43話】演技という名の免罪符、逃げ場のない救済
生徒会に受理されたクラスの出し物、『ロミオとジュリエット』の準備が本格的に動き出していた。
教室は、背景画を描くためのブルーシートが敷かれ、大道具担当が木材を叩く乾いた音が響いている。役割ごとに分かれて慌ただしく動き回るクラスメイトたちの熱気が、九月の停滞した空気をかき混ぜていた。
そんな喧騒の片隅で、俺と陽向は机を退かして作られた即席の舞台に立っていた。
手元にあるのは、ホチキスで雑に綴じられた台本だ。指の腹で紙の端をなぞると、湿り気を帯びた感触が体温をじわりと奪っていく。
俺と陽向は、そこに記された言葉を、ただなぞるように交わしていた。
呼吸は合っている。間も悪くない。
けれど、最前列の机に腰掛け、ペンを回しながら俺たちを観察していた脚本担当は、不満げに鼻を鳴らした。
「……ストップ。ねえ、二人とも上手いんだけどさ、なんか教科書を読んでるみたいなんだよね。もっとこう、いつも通りの二人でやってみてよ。西村くんが、当たり前みたいに紡木さんにお世話されてる、あの感じ」
その言葉に、俺は喉の奥で詰まったような息を吐いた。
「お世話、って。これはロミオとジュリエットだろ。いつも通りとは違うじゃないか」
「いいから。紡木さん、一回だけでいいから本気見せて。西村くんを、逃げられないように捕まえてみてよ」
脚本担当の挑発的な視線を受け、陽向は小さく息をついた。
「いつも通りの私たちね。……それでいいなら」
陽向がふっと視線を落とす。
長い睫毛が影を作り、彼女の表情を覆い隠した。
数秒の静寂。周囲の作業音が遠のき、俺の心臓の音だけが耳の奥で大きくなる。
次に彼女が顔を上げた時、その瞳の温度は明らかに変わっていた。
これまでは幼馴染としての顔しか見せてこなかった陽向が、最近になって時折のぞかせるようになった「女性」としての顔。
逃げ場を塞ぐような執着が、演技という免罪符を得て、今、剥き出しになろうとしていた。
「……動かないで、駿くん」
台本にはない、俺を呼ぶ声。
陽向が一歩、踏み出す。その足取りに迷いはなく、距離を詰める意志だけがあった。
俺が反射的に後ずさろうとした瞬間、陽向の手が、俺のブレザーの襟元を鋭く掴み寄せた。
「逃げるの? 敵の屋敷に忍び込んでおいて。私の心をこんなに掻き乱しておいて」
陽向の声は熱を孕みながら、どこか冷たさも帯びている。
彼女は俺の胸元に顔を埋めるように近づき、その耳元で、湿り気を帯びた吐息とともに言葉を紡いだ。
「名前なんて、捨ててしまえばいい。モンタギューも、キャピュレットも……全部捨てて、私だけを見てよ」
身体が硬直する。
陽向の指先が首筋から喉仏へと滑り落ち、血管の脈動を確かめるようにゆっくりと圧をかけた。
「私の唇が、あなたの罪を清める? ……違うわ」
至近距離で射抜くような瞳。
「あなたの罪を、私が全部飲み込んであげる。だから、もうどこにも行かないで。私の隣で、死ぬまで息をしていて」
その視線から目を逸らせない。
奥にある暗い熱に、理性が静かに削られていく。
「これだ!」
脚本担当が、弾かれたように立ち上がった。
「いい、最高! 紡木さん、それだよ! 悲劇じゃない、これは逃げ場のない救済だ。脚本、書き換えるわ。最後、ロミオが勝手に毒を飲むんじゃなくて、ジュリエットがロミオに毒を飲ませる展開にする。抗えない毒で、彼を永遠に自分のものにする物語に!」
陽向は俺の襟を離し、静かに脚本担当の方へ首を向けた。
その口角が、わずかに上がる。悪戯が成功した子供のように、あどけなく微笑んで。
「いいよ。ロミオが私以外に救われるくらいなら……それがいい」
陽向から伝わっていた熱が、じわじわと肌に残っていく。
俺は、自分の心臓がうるさいほどに脈打つのを感じながら、ただ彼女の瞳の深淵に見入ることしかできなかった。
目線を切って我に返り、呼吸を落ち着けて注意する。
「陽向、やりすぎ」
「えー、あの子も喜んでたしいいじゃん」
「いくら劇だからって、ずっとあの調子じゃ俺が持たないっての」
「駿くんもドキドキしてくれてたなら、嬉しいな」
「そういう問題じゃないでしょ」
「普段はこんなことしないよ」
陽向は俺との「閉じた世界」を肯定し、そこで胸を張って進むことを選んだ。俺もそれに応えるつもりでいた。
でも、それは陽向のためになることなのだろうか。
俺には、この強い感情を受けきれるだけの自信が、まだ足りない。
◆ 《石田沙耶》
文化祭まで残り半月も無くなった中旬過ぎ、展示の準備はそれなりに順調ではあった。
私と中原くんのクラスはミニプラネタリウム。投影機は既製品を用意し、ドームを製作するだけなので人手は最小限で済む。おかげで、部活に集中することができた。
坂口先輩や大野先輩もクラス作業の合間を縫って、できる限り参加をしてくれた。その甲斐もあり、資材も組み上がり始めている。
けれど最終決定権は部長である駿先輩が持っており、その駿先輩はほとんど来られていない。
駿先輩は毎日、最終下校時刻ギリギリまで練習していた。帰る前に様子は見に来てくれるが、相談できるほどの時間までは残されておらず、その日の進捗を話すだけだった。
クラスの演劇で主役に抜擢されたのだから当然と言える。
聞いた時は素直に凄いと思ったし、私が頑張れば何とかなるだろうと軽い気持ちでいた。でも実際には何かを決定するということは、その出来事の方向を左右するということであり、まだ経験の浅い私には、伸し掛かる重さに耐えきることができずにいた。
通話で相談しようか何度も迷ったけど、家でも練習しているだろうと思い、躊躇われた。時には駿先輩から連絡をもらい、話せることもあった。
先輩には練習で時間を取られ、部に行けないことを何度も謝られた。何かあれば遠慮なく連絡してくれていいとも言ってくれた。だけど先輩が悪いわけではないし、せっかくの『ロミオとジュリエット』なのだから、そちらも成功してほしい。
心も、体も、疲れ始めている。
そんなのは全部ただの言い訳。何よりも、先輩に会いたかった。
翌日、作業の途中。水が無くなったので自販機に買いに行く。軽い気持ちで先輩のクラスを覗いてみた。
駿先輩の声が聞こえる。
「君の愛はあまりに高く、あまりに深い。この壁を越えて君に触れれば、二度と元の僕には戻れないだろう」
そこには教卓をバルコニーに見立て、駿先輩を、ロミオを求めるジュリエットの姿があった。
「怖がらないで。私の愛は海のように際限がなく、与えるほどに増していく。どちらも無限なのだから。……ねえ、もう抗うのはやめて、私に溺れて?」
バルコニーから身を乗り出し、下で見上げるロミオに手を差し出し、頬を撫でるように強く、求める。
「……ああ。君という底なしの淵に沈むのなら、呼吸の仕方を忘れても構わない」
絶望にまみれ、ロミオが床に伏す。
……おかしい。こんな話だったかな。このシーンはジュリエットが純真な乙女の恋心をロミオに伝える場面のはず。
あんなに燃えるような執着を表に出して、ロミオを沼に引きずり込むようなものでは、ない。
あれでは、ただの『恋する陽向先輩』だ。
私は静かにその場を去る。
そうか、陽向先輩は先へ進んでしまったんだ。
……私が、先輩の”友だち”としていられる時間は、あと少しなのかもしれない。




