【第42話】矛先となる僕らの、幕が上がる前の焦燥
夏が粘り強く停滞しているような九月。
新学期が始まり、俺を取り巻く環境も変わった。
教室での席替え。くじ引きの結果、俺の位置は変わらなかったが、目の前にいたはずの陽向が俺の真後ろに移動した。もちろん、不正などない偶然だ。
悠斗と坂口は少し離れた席になったが、昼休みには以前のように四人となった。
一学期の後半と同じように、俺は逃げ場を求めて写真部へ足を向けようとしたが、陽向によって阻まれた。
「もういいと思うよ。私たちに後ろめたいところなんてないんだし」
「いやでも、パン買いに行かないと」
「お弁当、駿くんの分も作ってきたよ。いらない?」
「……いる」
差し出された弁当に罪はない。けれど、潤んだ瞳で上目遣いにねだってくる陽向は、控えめに言っても罪作りだった。
「なんだ駿、今日はここで食べるのか。なら俺も一緒に食うぞ」
「それなら私も。陽向の手作り弁当なんて、羨ましいじゃん」
「これから毎日作るよ。また四人で食べられるね」
陽向の言葉に便乗し、悠斗と坂口が息を合わせて机を並べる。
坂口による鉄掌制裁を経て、三人の結束は以前にも増して強固になった。陽向が二人への遠慮を捨てたことで、互いの距離が一段と近くなったのが分かる。
喜ぶべき変化なのだろうが、それは同時に、俺の味方が一人もいなくなったことを意味していた。
それなのに、俺の頬がどうしてか緩んでしまうのを止められなかった。
この光景に対し、数人の男女から刺々しい嫉妬の視線や舌打ちが投げかけられていたことに、その時の俺は気づいていなかった。
◆
部活動では、『あの夏の残響』と称した没入型展示の準備が本格化していた。
予算編成は無事に通過し、悠斗と坂口が資材調達のためにホームセンターへ向かっている。
アロマオイルの価格が想定を上回り、弱小文化部のシビアな現実に直面したが、加湿器や送風機などの機材を自前や学校からの借用品で賄うことで、なんとか目処が立った。
その代償として、冬のコンクール費用は自腹を切ることになったが、沙耶ちゃんは「自分が満足できる写真が撮れればいい」と最初から執着がなく、俺も自信作が一枚あれば出す、という程度の認識だった。
あの時撮った沙耶ちゃんのポートレートなら、いい線までいけるかもしれない。けれど、本人が拒むのは分かりきっているので、俺はその考えを胸の奥に仕舞い込んだ。
◆
クラスのロングホームルーム。文化祭の出し物を決める時間がやってきた。
委員長が黒板に案を書き連ねていく。「喫茶店」「たこ焼き」「クレープ」「演劇」「お化け屋敷」。
クラスの催しに過剰な労力を割きたくなかった俺は、機材の調達やセットの組み立てが比較的容易そうな「たこ焼き」か「クレープ」を落とし所と考えていた。
多数決が始まり、俺は「たこ焼き」に手を挙げた。悠斗も同調する。陽向と坂口は「クレープ」に挙手した。男女の好みで分かれたが、思考の方向性は一致していた。
だが、結果は非情だった。
「じゃあ、うちのクラスは『演劇』ってことでいいかな? 今更だけど、演劇部があるのに演劇やるの?」
委員長の鋭い指摘。クラスの演劇部員の女子が苦笑しながら答える。
「うちらは夏休みに映画を撮っててさ。文化祭ではそれを流すだけなんだ。クラスの催しに参加できないって部員のボヤきが毎年あったから」
ならクラスでまで演劇をすることはないだろう、と叫びたくなったが、その部員は早々に「喫茶店」案へ逃げていた。
「ならいいけど、演劇なら時間がないから、演目も配役も早く決めないと」
ざわめく周囲の中、一人の女子が手を挙げた。修学旅行の際、陽向と坂口の班でリーダーをしていた生徒だ。
「『ロミオとジュリエット』がいいと思う。ロミオが西村で、ジュリエットが紡木さん」
「……は?」
名前を指名され、反射的に椅子を鳴らして立ち上がる。
「演技なんてやったことがないのに、上手くいくはずがない」
「いいじゃない。ロミジュリって二人の息がピッタリなのが一番大事なんだから、あなたたちなら上手くやれるでしょ」
女子の反論に、数人の賛同が重なる。「そうだ」「やれ、やれ」。
最悪の流れだ。
後日知ったことだが、発端はその女子がクラスの男子に告白し、「陽向のことが好きだから」という理由で振られたことだったらしい。陽向への逆恨み。俺たちが離反していた一学期の後半、彼女にとってそれは蜜の味だったのだろう。
夏休みを経て、陽向が輝きを取り戻し、四人の関係が修復された。目立つことを嫌う俺と陽向を、衆人環視の舞台に引きずり出す。彼女にとって、これ以上ない攻撃のチャンスだった。
シャツの裏側を、くいくいと引かれる感触。
「いいよ、駿くん。やろう」
「……でも、いいのか?」
「あの子自身が言った通りだよ。私たちに付け入る隙がないって、見せつけてあげればいいだけでしょ?」
陽向が、穏やかに嘲笑った。
静かな怒りを湛えたその微笑みは、思わず見惚れるような艶を纏っている。
陽向が前を向いているのなら、俺に抗う理由はもうなかった。
「やります。相手が駿くんなら、私にできる最高のジュリエットを見せるから。みんな、負けないでね」
背後で陽向が立ち上がり、その女子に向かって鮮やかな笑みを浮かべた。女子は悔しそうに顔を歪め、椅子に沈み込む。
俺は、まだ自分が彼女を守る立場にいると思っていた。けれど、今の陽向にそれは必要なかったのだ。この程度の揶揄など、今の彼女には追い風にしかならない。
「そういうことらしいんで、陽向に相応しいロミオをやるから、脚本も気合入れてくださいね」
これで写真部に割ける時間は大幅に削られるだろう。けれど、凛とした陽向の姿を見られたことが、何より誇らしかった。
「……かっこよすぎでしょ」
俺にしか聞こえない小声。頭の後ろを、コツンと軽く叩かれた。
◆
「えっ! 駿先輩と陽向先輩で『ロミオとジュリエット』やるんですか!?」
部室に、珍しく大きな沙耶ちゃんの声が響き渡った。
「うん。悠斗が小道具で坂口が衣装。二人ともなるべくこっちに顔を出せるようにはしてもらうけど、俺と陽向はかなり時間を持っていかれると思う」
「いや、そういう問題じゃなくて。見たいじゃないっスか」
陸も身を乗り出してくる。
「撮影係もいたから、録画されるよ」
陽向が苦笑を漏らすと、「こういうのは生で見たいんですよ」と陸が本気で悔しがった。
「それにしても、演目を決めた時の二人ときたら――」
「あー、実際, 俺の負担がかなり皆に行く。特に沙耶ちゃんは大変かも」
坂口が不穏な暴露を始めようとしたので、強引に言葉を遮る。
「私はあとは配合を考えて、空調はレイアウト次第だから家でもできるけど」
陽向も便乗し、巧みに話題を逸らした。
「ま、私もできる限りフォローはするから。西村は大変だろうけど頑張れ」
坂口も失言に気づいたのか、気まずそうに天井を見上げる。
「……でも、陽向先輩のジュリエット、見たいです」
「あまり期待しないでね、沙耶ちゃん」
「分かりました。部の方も、頼りないかもしれませんが、頑張ります」
「俺らのクラスはミニプラネタリウムで余裕あるんで、任せてくださいよ」
「陸が一番心配なのよねー」
「こう見えても陸はやる時はやる奴だ」
「さすが悠斗先輩! 分かってくれる!」
「……と思う」
「悠斗先輩!?」
冗談めかしてはいたが、クラスでの拘束時間は俺と陽向だけでなく、悠斗や坂口も長い。
演劇に集中すれば、沙耶ちゃんと陸に大きな負担を強いることになる。
夏休みに蓄えたはずの貯金をすべて使い果たしていくような、削られていく感覚が、俺の肌をじりじりと焼いていた。




