94 牢屋とトイレ。そしてバナナ
「ふう……」
水音が静かに止まり、カナンの安堵の吐息が耳に届いた。
場の流れで壁際に立ったまま待つ羽目になってしまったが、冷静に考えるとこれってなんだか変態プレイみたいだな。
しかしこれは完全に不可抗力だ。俺は悪くない。
バタン、と便座の蓋が閉まる音が響き、どこかぎこちない笑みを浮かべながらカナンが戻ってきた。
「リーフ、目を覚ましたのだな! まあお前のことだ、あの程度で死ぬわけがないと思っていたぞ!」
「お、おう。お前も無事でなによりだ」
まるで何事もなかったかのように、お互いの生存を確認する俺たち。
ついさっきのトイレの件について言いたいこともあるのだが、俺にだって多少のデリカシーはある。わざわざ蒸し返すのは野暮ってもんだ。
「俺は気絶して、目が覚めたらこの牢屋だったよ。お前はどうだったんだ?」
「むう……。実はな、私がオーガと死闘を演じていたのは知っていると思うが、口惜しいことに最後には打ち負かされてしまったのだ。もはやこれまでと、さすがの私も死を覚悟したのだが――」
カナンはそこで一旦言葉を切り、あからさまに顔を曇らせた。
「そのオーガがな、あろうことかこう言ったのだ。『なかなかやるじゃねえか。ここまで俺に張り合った女はお前が初めてだ。気に入ったぞ、俺の嫁にしてやろう』とな。そして後から来た配下のオーガたちに捕らえられたのだ」
「嫁……? そのわりにお前の待遇、酷くないか? トイレもない牢屋にぶち込まれてるじゃん」
あ、言っちゃった。
途端にカナンの顔がみるみる赤く染まっていく。
「むうううううっ! それは当然、私が求婚を拒否したからだ! それにリーフ、貴様こそどうなのだっ! 助けにきておきながら、なんの役にも立たなかったではないか!」
「あっ、お前! それは絶対に言っちゃいけないヤツだろ!? 俺だって――」
「なんだ、言ってみろ! なんだと言うのだ!」
「――しっ。静かにしろ。誰か来る」
俺の引きこもりセンサーがピリッと反応した。この暴力的な気配――間違いない。俺たちが遭遇したあのオーガだ。
「一旦戻る。お前は大人しくしてろ」
「か、壁はどうするのだ!?」
「秒で戻す」
俺は自室に戻ると、即座に【土創造】で崩した壁を補修した。表面の凹凸もなるべく再現する。この暗がりならまずバレないだろう。
それからしばらくして――
ドスン、ドスンと重い足音が階段を降りてくるのが聞こえた。
俺は【照明の花】を消し、さらに便座を潰して痕跡を消すと、仕方なく汚い地面に横たわった。切った荒縄を手首と足首に軽く巻き付け、力なく倒れているふりをする。
そうして薄目で扉を見ていると――扉の小さな覗き窓から、ぎょろりとした赤い目がこちらを覗き込んだ。例のオーガだ。
「フン、まだ起きねえか。軟弱なエルフめ」
低く鼻を鳴らし、吐き捨てるように言い放つ。そして足音は隣のカナンの牢屋へと移る。
「おい、カナン。どうだ、俺の嫁になる気になったか?」
「答えは変わらん、断る! 私は姫様に仕える騎士なのだ! 貴様如きに屈したりするものか!」
「その姫様とやらも捕まえて、一緒に嫁にしてやると言っただろ。だからさっさと俺の嫁になれ。俺の嫁になれば毎日腹いっぱい食わせてやるし、夜もたっぷり可愛がってやる。族長の俺が言ってるんだぜ? いい話じゃねえか」
「断固拒否する!」
「だがなあ、カナン。お前が嫁にならねえなら、殺すしかねえぞ? それがオーガの掟だ。それにお前が嫁になるなら、隣のエルフも助けてやると言っただろ? あいつが死なねえ間に、さっさと覚悟を決めたほうがいい」
「くっ……! 私は絶対に屈したりしないっ!」
「ガハハ! 俺は強い女が好きだが、気の強い女も好きだ! それじゃあまた朝に来る! 考えておけよ! ガハハハハ!」
豪快な笑い声とともに、足音は遠ざかっていく。
やがて牢屋は再び静寂に包まれ、張り詰めていた空気が、ゆっくりと緩んでいった。それからしばらくして――
「――カナン、お前マジで求婚されてたんだな。もしゃもしゃ」
俺は再び壁を壊してカナンの牢屋に行き、バナナを頬張りながら言った。
「うむ……。どうやら気に入られてしまったようなのだ。……ところでお前は何を食っている?」
「バナナっていう最高の栄養食だ。食うか?」
「食べるぞ! 私は朝から水一杯すら飲ませてもらってないのだ!」
求婚されてるのに、待遇はマジで俺と変わらんかったらしい。不憫なヤツめ。
俺がバナナを一本差し出すと、カナンはそれを奪い取るように掴み、いきなりガブリと皮ごとかじりついた。
「うぐっ!? なんだこの妙に噛み切れない食感は……。ぜんぜん美味しくないのだ……!」
「違う違う。まずは皮を剥くんだよ。ほれ、こうやって……。それから中の実だけを取り出してパクッと食べるんだ」
俺の説明にカナンはなぜか訝しげな視線を向ける。
「リーフ、お前……。私に何か、こう……いやらしいことをさせようとしていないか?」
「いちいちそんなことを考えるほうがエロいんだよ、バカ騎士め。いいから黙って食え」
「う、うむ。こう……するのか……? それで……んっ……はむっ……」
最初うまく食べられなかったせいか、おそるおそる皮を剥き、前に流れた髪の毛をかきあげながら、ゆっくりとバナナを口に迎え入れるカナン。
……なんだコイツ。自分からわざとエロく見せてないか?
だがそんなインモラルな雰囲気はすぐに消し飛んだ。バナナを一口食べたカナンがパッと目を輝かせる。
「――っ!? 甘い! なんだこれは! 柔らかくてとろけるようだぞ! バナナというのはこんなにも美味いものなのか!」
「だろう? これまでも似たような果物は食ったことがあるけど、ここまで再現されたのを食べたのは、こっちでは初めてだよ」
「こっちでは初めて? 世界樹の森を出てからってことか?」
「気にすんな。それより、この後どうするか考えようぜ」
「フフン。それなら私にいい案がある」
口の端にバナナのカスをつけたまま、カナンが自信満々に胸を張ったのだった。




