33 帝国の目
カナンがリーフのもとへ駆け込む、少し前――
ファルトスの町郊外。人の出入りが途絶えて久しい古びた屋敷。その応接間ではアリスティアが椅子に腰をかけており、傍らには執事のセバスと騎士カナンの姿もあった。
追手の目を逃れ王都を目指す以上、冒険者ギルドに安易に頼るわけにはいかない。相談相手は厳選され、密談の場所もその都度変えられてきた。ここもまた、そうした慎重な選別の末に選ばれた場所だった。
「では、この件はここまでに。明朝には信用のおける護衛を揃え、お迎えにあがります」
そう口にしたのは、アリスティアの対面に座る恰幅の良い男。王国出身であり、この町から王国を支援してきた商会の会頭だった。その傍らには腹心の部下である細身の男が控えている。
「はい。それではお願いいたします」
アリスティアが静かに応じると、会頭は緊張した面持ちで深く頭を下げた。
「この度、アリスティア様から直々にお言葉を賜れましたこと、まことに身に余る光栄でございます」
「私に尽力してくださった方々に何のお礼も申し上げぬまま、この町を去るわけにはまいりません。此度の恩義は王都に戻り、王族として責務を果たすことで必ずやお返しいたします」
「あ、ありがたきお言葉……!」
王族としての決意を表明するアリスティアに会頭は思わず息を呑み、感激に顔を紅潮させる。
王女アリスティアといえば、その美貌と聡明さで王国中に知れ渡る存在。直々の言葉に会頭が感動するのも当然だった。
しかしそんな完璧な王女を演じるアリスティアの内心に、あのエルフの青年を仲間に引き入れる猶予を失った密かな落胆があったことを、会頭は知る由もなかったのである。
会頭が挨拶を済ませ、名残惜しそうに席を立つ。
「それでは私共は失礼いたします。……おい、どうした。行くぞ」
「はっ、はいっ……!」
会頭に促され、部下の男が立ち上がる。その顔色は明らかに悪かった。脂汗がにじみ、指先は小刻みに震えている。
それは高貴な身分を前にした緊張というには、あまりに違和感があった。
セバスがその様子を訝しんだ、次の瞬間――屋敷の外を取り巻く気配が一変していることに気が付いた。何かが迫っていると直感する。
「姫様っ! ここから出ますぞ!」
「セバス!?」
セバスは応接間から飛び出すと、アリスティアを引き連れて屋敷の玄関の扉を開け放つ。
だがそこにはすでに退路など残されておらず、数十人もの黒装束の男たちが屋敷を包囲するように待ち構えていた。
「くっ……!」
セバスが息を呑み、同時に会頭の部下がよろめきながら後ずさる。
「す、すみません……すみません!」
部下の男が震える声で叫び続ける。
「でも、こうするしかなかったんだ! でないと妻と娘が……!」
「おい、どういうことだ!?」
会頭が声を荒げる。しかしその疑問に答えたのは部下の男ではなく、黒装束たちの中から現れた一人の青年だった。
「ははっ。聞くまでもないでしょ? この状況を見たら……だいたいわかるよね」
青年は楽しげに肩をすくめる。その姿は一見、町の住人のようにありふれて見えるが、視線だけは鋭くアリスティアたちを捉えていた。
「陰でコソコソやってたみたいだけど、帝国の諜報能力を甘くみてもらったら困る。あんたらの行動なんて、あっという間に筒抜けになってたというわけさ」
「貴様……何者だ!?」
「俺は帝国諜報院、長官サイロスだよ。以後お見知り置きを」
青年――サイロスは皮肉めいた笑みを浮かべて慇懃無礼に挨拶をすると、アリスティアたちを見回すように眺めて口を開く。
「ところで先日はさ、もう少しで姫様を捕まえられたっていうのに、惜しいところでフードを被った男に邪魔されたらしいじゃない。……ソイツはここにいるのかな?」
「くっ……!」
「今度はそう上手くいくと思うなよ!」
軽口に答えることなくセバスとカナンがサイロスを睨む。するとサイロスはがっかりしたように肩を落とした。
「……いないみたいだね、残念。俺が手塩にかけて育てた配下を退ける男に、ちょっと興味があったんだけど」
サイロスがそう呟いた直後、会頭の部下が錯乱したように彼の元へと駆け出した。
「い、言われたとおりにやったぞ! これで妻と子は助けて――」
「あははっ」
笑顔を見せたサイロスは、いつの間にか手に持っていたナイフ振るい、ためらいもなく男の首を掻き切った。
「あ、が――!?」
男の首から血が噴き出し、そのまま地面に崩れ落ちる。
「急に近づかないでよ、ビックリするじゃん。……ああ、でも安心して。お前の妻と娘もすでに死んでるからさ。きっと向こうで会えるよ」
「ひいいいいいっ!」
突然の惨状に会頭が悲鳴を上げ、その場で腰を抜かす中、セバスとカナンがアリスティアの前に陣取る。
「くっ……姫様、この失態はセバス一生の不覚……! かくなる上は私の命をもって、必ずや姫様の御身を守ってみせます」
「私もです! 姫様ご安心を!」
「あらら、ご立派だね。でも、ご老体と女騎士の二人じゃあ、さすがにこれだけの人数は厳しいんじゃない? しかもこの俺だっているんだよ?」
そうして口の端を吊り上げたサイロスは、血濡れたナイフを前に突き出し、静かに命令を下した。
「――皆殺しにしろ。だが、アリスティア姫だけは殺さず生け捕りだ。少しでも傷をつけたら、お前らの命で償ってもらうよ」
「「「「はっ」」」」
黒装束の男たちが一斉に動き始めた。その様子を睨みつつ、アリスティアは考える。
今回は先日、馬車が襲われたとき以上の戦力だ。この場でカナンとセバスが奮闘したところで、それはきっと自分の身柄がさらわれるまでのわずかな時間稼ぎにしかならないだろう。
ならば――
ここで取るべき選択は、一つしかない。
「カナン、アレは持っているわね」
「アレ……は、はい!」
「なら命令よ。この場からなにがなんでも逃げ出しなさい。後は……わかるわね?」
「姫様、そんなこと言わないでくださいっ!」
「今回は黙って言うことを聞いて。それとセバス、貴方は私の身は守らなくていい。その代わりカナンを必ず逃がしなさい。絶対よ」
「!? ……はっ!」
一瞬躊躇したセバスだったが、すぐに腰に携えた長剣を抜き放ち、カナンの前に立った。老骨に鞭打ち、凄まじい気迫を発するその姿は、かつて王国最強と謳われた騎士の面影を宿していた。
その姿にカナンはやがて覚悟を決めたようにぐっと歯を食いしばる。
そんな二人の覚悟を目の当たりにし、アリスティアはこの冷え切った状況下にわずかな希望を見い出した。
こんなところで捕まるわけにはいかない。王都へ戻り、果たすべき使命があるのだから。
この状況下でアリスティアが一縷の望みを託したのは、あの不遜で根暗で偏屈で引きこもりのエルフの青年であった。
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