Sunday (エピローグ)
***
時間は止められない。
また、時の流れで移りゆくものを、変わらぬ姿でとどめようとすることもできない。
少年だった真雪が男性へと成長を遂げたように。
家族愛だったはずのものが、異性への愛情に変化していったように。
ひとつだったものがバラバラになり、共にあったものが離れてゆく。
零れ落ちてゆく時の砂を、喪失への涙を、誰にも止めることができなかったように。
***
――……三年後。
「斎藤さん!今日も残業やってたんですか!」
「あれ安東さん、すごく濡れてるね。傘忘れ?」
会社の出入り口のロビーで折りたたみ傘を開いていると、びしょぬれのまま走りこんでくる安東君とはちあわせた。
同じビル内とはいえ、部署が変わった安東君の顔を見るのは本当に久しぶり。髪からぽたぽたと水を滴らせていて、かなり哀れな姿だけど。
「今日は忘れたんじゃないんです。暴風で傘がひっくり返って壊れたんですよ!」
「あー、不運だったんだね」
「それよりも、斎藤さん! 明日、いよいよでしょう!? なにやってんですか、早く帰らないと!」
「んー、今、帰るところだよ。7日も休むからね……ちょっと仕事しておきたくて、こんな時間になっちゃった。あ、タオルハンカチあるよ、貸そうか? 安東さん、水も滴るいい男というのはちょっと無理があるよ」
私が軽口をたたくと、安東君は眉を寄せた。
「タオル持ってるんで大丈夫です。斎藤さんの婚約者みたいに水も滴るいい男じゃなくてすみませんね!でも、こんな私でも素敵だって言ってくれる妻がいるんですよーっ」
「はいはい、安東さん、新婚の惚気はいいから。じゃハンカチはいらないなら、このホットレモンあげる。そこの休憩所の自販機で買ってきたばかりだから、あったかいよ」
私が濡れてる安東君の手に押し付けると、安東君は驚いた顔をした。
その表情に笑顔を向ける。そして小さな声で囁いた。
「結婚式……結局よべなくてごめんね。私は呼んでもらったのに」
「いえ、それはかまいませんけど。妻はまたバーベキューしたいらしいので、また四人で集まりましょう」
安東君がフォローするように言ってくれる。もともと飄々とした中に時どき細やかな気遣いをみせる人だったけれど、結婚してからもっと優しくなったと感じる。
「ありがとう。北海道みやげ、期待しててね」
安東君が濡れた頭のまま笑った。
「お気をつけて」
「ありがとう!またね」
ひらひらと手を振って、私は会社のビルを後にした。
――私の後輩だった安東君が結婚したのは去年のことだ。
「斎藤さんより先に結婚しちゃいます!」と言われたときはびっくりした。でも、彼は家庭を持ってからとてもしっかりしたように思う。責任感も、仕事への取り組み方も。彼はもう「斎藤先輩」とは呼んでこないし、私も「安東君」とは気安く呼ばなくなった。もう昔のように会社用の携帯電話をうっかり忘れてくるような失敗はしないだろう。
そうやって成長していく後輩を見るのは嬉しいし励みにもなる。
ちょうど安東君が結婚を考えていると言いだしたころ、私自身も仕事の上でいろいろと転機が訪れていた。私も部署を異動することになったのだ。アパレルメーカーの中でも営業活動が主だったセールス部門から、バイヤーが発注した商品を店舗に分配するディストリビューターへ。
幾つか難関はあったものの、結果的に転身希望が通ったのだ。今はまだ大きな店舗はまかせてもらっていないものの、店舗の売上を左右する仕事に、毎日ヒーヒー言いながらも充実した毎日を送る。
私を営業畑で育ててくれた伊崎課長は部署を変わることを残念がってくれた。だけど、その伊崎さんも関西の方に栄転したので、いろんな意味でタイミング良かったのかもしれないなんて、少し思っている。――伊崎さんには、結局うまく真雪のことを説明できないままとなったから――……。
三年。
三年は長いのかな。短いのかな。
人によって、その年月の過ごし方によってまちまちだろうけれど、私には長かったように思う。
会社のビルの自動扉を出ると、いっきに雨の冷気に包まれた。コートの上から羽織るショールをさらにぎゅうっと首に巻きつける。
雨の中に薄ピンクの傘を広げて、濡れた道に一歩を踏み出す。街灯やら電光掲示板やらに照らされた、雨に濡れた街がキラキラと光っている。
淡々と歩いて駅にむかっていると、雨音に混じりスマホのメール着信の音が流れていることに気付いた。あわてて鞄から取り出す。
雨粒がかからないように気遣いながら確認したメールは、K企画の結城さんからのものだった。
『明日から、気をつけて。真雪くんにも、よろしく』
簡潔な文面が結城さんらしくて、冷たい雨風の中、あったかい気持ちになった。
かつて、真雪を紹介したときに、『必ずといっていいほど、ご両親は苦しむと思うよ』と率直に言ってくれた結城さん。そして苦渋を示しながらも、応援するとも言ってくれた彼は、言葉の通り私たちの相談にのってくれて、私たちを見守ってくれた。
あれから、三年たった。
三年もかかった。
真雪が卒業するまでに、まず一年。経済的な問題やら、修士論文との両立やら、真雪は数キロ痩せるぐらいに切りつめて動いていた。それでも、院生のころはなんとか会う時間を作ることができた。
大変だったのは、就職してからの一年。彼は移動ばっかりだったのだ。東京本社の企業に就職が決まったはずなのに、実際は研修を兼ねた一年ということで、幾つかの地方の工場勤務や研究施設を移動していく一年。加えて出張続き。お互いほとんど会えないまま、メールや電話やスカイプのやりとりで連絡を取り合う状態に陥った。
一年すぎて、やっと真雪の配置が定まり落ちつき始めた頃、今度は私の部署移動が決まった。私は深夜帰りに泊まりがけ出張が当たり前の日々に突入。しかも土日は出勤日となり、真雪と休日が完全にずれてしまうようになった。
こうしてあっというまに三年が過ぎ去った。
この三年間に、好きあっているからこそ、会えなくて苦しくなって、わがままを言いかけて、我慢して、それもこじれて喧嘩したりもした。
会えなかった分、会ったときにお互いに求めあいすぎて、縛りつけそうになって、見失いそうにもなった。
真雪と私は、嫉妬も知って、寂しさも知って、感情に突き動かされて抱きしめあう情熱を知った。
三年……振り返るとあっという間でも、やはり私には長かった。本当に、長かった。
でも、私と真雪には必要で、この時間をかけて私たちはちょっとずつ男と女になってゆけたんだとも思う。
そしてこの三年は、周囲の理解を得ようともがいた年月でもあった。
姉弟であることを話すといろんな反応があった。興味津津な人もいれば、無関心な人もいた。眉をひそめて離れる人もいたし、変わらない人もいて、最初のころは相手の反応に一喜一憂にして振りまわされた。
だんだんと落ちついて、自分の立ち位置を冷静に話せるようなった。
とはいえ、友達はなんとなく受け入れてくれたものの、親族で理解を示してくれているのは、片手で足りるような人数なのにはかわりはない。近しいからこそ、受け入れ難いものがあるんだと、突きつけられた。
ただ、それでも理解を示してくれる人が増えてはいることに喜びもある。
最初は私と真雪が眉をひそめられるだけでなく、母のところに非難の電話をしてきた親戚すらいたから。どれだけ胸が締めつけられたかわからない。
そんな中でもあきらめずに少しずつ真雪を紹介しつづけることで、ここ最近、私たちを受け止めてくれる人がでてきた。
最初はあからさまに私を無視していた叔母が「私が間違ってたんや。美幸と真雪くんは、堂々としとけばいい」と電話で言ってくれた。そのときは思わず泣いてしまったのを、今でもはっきり覚えている。
やはり、私たちを取り巻く人にとって、最低三年は必要だったのかもしれない。まだまだ理解の途中だけれど……。
「……結城さんへのお土産も忘れないようにしないとね」
結城さんからのメールを確認し終えて、鞄にスマホを戻す。
その直後、またスマホから音が鳴った。
今度はジムノペディのメロディ。大好きなピアノの調べが幻想的に響いた。私は、すぐに電話に出た。
『美幸? 大丈夫?』
スマホの向こうから届くのは、真雪の声。
愛しい愛しい人の声だ。
「うん遅くなって、ごめん。立てこんでて連絡いれられなくて。今から帰る」
『明日から休み取るから仕方ないよな。傘は持ってる?』
「うん」
『……先に部屋で待ってるから。あと父さんたちから連絡あった。明日の朝は、直接空港に向かうから送迎まで気にしなくていいって。空港で落ち合おうって』
「わかった。ありがとう」
真雪の言葉に頷く。
スマホに向かってうなづいたって仕方ないんだけど、つい、そうしてしまう。傘に落ちる雨音に包まれながら、私はスマホの向こうにいる真雪に語りかける。
「やっとここまで来たね――……。北海道旅行、喜んでくれるかな」
『どうかな。新婚旅行を邪魔するみたいで気がひけるって、さっきの電話でも言ってた。だけど、声はずいぶんと弾んでたよ』
笑いの混じった真雪の声が心地いい。
早く帰って、真雪に会いたいと思う。
そんな風に思ったとき、耳に当てるスマホから、甘い声が響いた。
『美幸』
「ん? なあに」
『早く、帰っておいで』
「うん――……」
明日、私と真雪は結婚する。二人の人に見守られて。
父と母、そのたった二人に見守られて、札幌の小さな教会で挙式するのだ。そうしてそのまま、ささやかながら札幌から函館の家族旅行へ出立予定となっている。
三年前に中断させてしまった北海道旅行。同じとはいかないけれど――……。
あのときバラバラになった絆。まずは一つ、結びなおせたよって四人で祝いたい。
そして、絞り出すような――……。
「……いつか、本当に美幸が、真雪のお嫁さんになり、僕の娘になってくれる日を待っているよ」
という父の言葉に応えられたら嬉しい。
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時間は止められない。
また、時の流れで移りゆくものを、変わらぬ姿でとどめようとすることもできない。
少年だった真雪が男性へと成長を遂げたように。
家族愛だったはずのものが、異性への愛情に変化していったように。
ひとつだったものがバラバラになり、共にあったものが離れてゆく。
零れ落ちてゆく時の砂を、喪失への涙を、誰にも止めることができなかったように。
けれど。
時間は止められないからこそ。
見えない縁をたぐりよせるようにして、人は結びつくことができるはずだと信じるのかもしれない。
バラバラになったものも、一つ一つ繋いでいくことがきっとできるはずと願うのかもしれない。
そして、流した涙の数々を、思い出としてあたたかな気持ちで振り返られる日がきっと来ると、未来を想い描いて今を歩むのかもしれないと、今の私は思う。
明日があるにちがいないと、零れ落ちてゆく時の砂の行き先に、目をこらしながら進んでいく。
***
駅を降り立てば、雨が止んでいる。帰りを急ぐ足が、さらに速足になってたくさんのしぶきをあげながら、子供みたい進む。
そうして、やっとたどりついた我が家の勢いよく扉を開ければ、その向こうには暖かな光りの渦。
「……真雪、ただいま!」
私は、大好きな人の笑顔にとびこんでゆく。
「おかえり、美幸」
共に歩んでいく人と、手をとりあって生きていくために。
fin.
連載が休止していた期間を含め、数年かけての連載になりました。
お読みくださり、ありがとうございました。




