第9話:夏の冷やし飴湯
「おはようございます、茈瑛様」
「あぁ、おはよ――なんだ、夕霖。お前……なんか顔色が悪いぞ」
――と、茈瑛は顔を見せるなりきゅっと眉を寄せた。
朝一番の台詞がそれかと思ったが、目の前の青年は心配そうに夕霖の方を見つめている。
「朝飲んだ薬湯が苦くて……それが原因だと思います」
「薬湯って、病にでも罹ったのか?」
「疲れがなかなか取れなくなっていて、念のために薬房に行ったんです」
睡眠はとれています、と伝えたが、それでも茈瑛は心配そうに夕霖の側をうろついていた。
普段は椅子に座って動かないのに、こうも周りをうろうろされると――正直、ちょっと邪魔である。
「あの、本当に大丈夫なので……」
「薬房の薬だけで足りるのか? ゆっくり休める部屋が必要なら、一つ用意させるが」
「そこまでしていただかなくても……ほら、最近暑いですから」
笑顔を張りつけて、やんわりと「そこに座っててください」と伝えても、なお茈瑛は心配そうだった。
権力を持て余すくらい持っているのはわかっているが、こんな下っ端に個室なんて与えたら大変なことになる。
「茈瑛様、あの……」
邪魔とは言えないから、なにかで気を逸らそう。
そう思って、夕霖は適当に棚を見漁った。すると、木箱に収められた一本の簪が目にとまる。
「こ、この簪なんですが! はめ込まれている青い宝玉が、ただの色玻璃のようでして――」
「なに? 本当か」
「はい。添え書きには砂漠を越えてきた碧玉と書いてありますが、中身は色をつけた玻璃です」
窓の方へ行って日にかざすと、中には気泡が見えた。
案の定、茈瑛は夕霖の話にすぐ食いつき、じっと簪を眺める。
「気泡がありますね」
「あぁ、ダメなのか? 日にすかすと綺麗だが、この前の白玉も似たようなものだっただろ」
その質問には、ゆっくりと首を横に振った。
「天然の宝玉にも、泡のように見える内包物が入ることはあります。でも、これほど小さな気泡がまとまっているのは不自然です」
どちらかというと、これは玻璃の特徴だ。
「もちろん、これほど透明度が高く美しい玻璃は、それだけで価値があります。……でも、碧玉ではありませんので」
「あぁ、わかった。念のため、これも紙に書いておいてくれ」
十分茈瑛の気を逸らすことはできたらしい。
安堵しながら皇帝陛下へ向けた文書をしたためていると、茈瑛は棚の方を眺めながらつるりとした顎を撫でた。
「お前が見てきた中で、本物はどれくらいある」
「来歴や年代、素材まで全て本物と思われるものは、およそ三割ほどです。来歴に偽りがあっても、品そのものには価値があるもの――先日の白玉の酒杯のような品が五割ほど」
「つまり、残り二割は全くの偽物と」
「目利きとしては十分すぎるかと思います。十のうち八が本物なら、陛下も鑑定を生業にやっていけますよ」
恐れ多い軽口だが、実際ものは非常にいい。
この玻璃の簪だって、碧玉と言われているから偽物なのであって――最初から上等な玻璃の簪だと言われたら、買い付けた皇帝の目が確かだったという話になるはずだ。
「鑑定を生業に、か。それも面白そうだな」
「……聞かなかったことにしてくださいね。不敬罪で首を落とされかねません」
実際は、十のうち二つも偽物を掴む鑑定士は食っていけないだろう。
だが、商売の厳しさを知らないお坊ちゃんはニヤッと笑みを浮かべた。
「そこまで狭量な人間ではないぞ」
「陛下のことをよくご存じなんですねぇ」
「……まぁ、おそばで仕えているからな」
こちらの要望は何でも聞いてもらえるし、確かにお心の広い方なのだろう。
顔を見ることもできない天子様の寛大さを考えていると、ぐきゅぅ、と間の抜けた音がした。
――夕霖の腹だ。
「……なんだ、今の音」
「――です」
「なに?」
「で、ですから……お腹の音ですっ……!」
追求しないでほしかった――そんな夕霖の願いは、呆気なく打ち砕かれる。
朝はしっかり食べたはずなのに、時間になると腹が鳴る。
食べられないよりは健康でいいのだが――目の前でプッと吹き出した貴人には、ついイラッとしてしまった。
「薬湯をもらうほど体調がすぐれないと思っていたが……腹は減るのか」
「すみません……お聞き苦しいものを……」
「いやいや、腹が減るならなにより。そうだな――なにか厨房からくすねてくるか」
符宝郎ともあろうお方がそんなみっともない真似はしないでほしいのだが、どうにも茈瑛はワクワクした様子だった。
前に点心をもらった時も、厨房で直接料理人に声をかけるのをひどく楽しんでいた。
(見かけによらず食道楽なのかも)
父のようにでっぷりと腹が出ているわけじゃないが、世の中には痩せの大食いという人もいる。
「そうだな……飴湯を冷やしたやつはどうだ?」
「え、あ……あるんですか、それ……」
「あぁ、今日は暑いからと、帝が作らせていた。どうせ毒見役や給仕の分を差し引いても余るはずだ。少し分けてもらおう」
にやりと笑った茈瑛にくっついていくと、確かに厨房には冷やした飴湯があった。
茶碗に注いでもらった飴湯を飲むと、口の中に残っていた苦みがすっと引いていく。
涼しげな甘さに、体の中にこもっていた熱さも消えていった。
「お、おいしい……」
実家で飲んだものも好きだったが、うんと冷やされたこの飴湯は格別だった。
恐らく、金に糸目をつけず氷を大量に使っているのだろう。
「お金がかかった味がする……」
「なんだそれ。でも、少し顔色はよくなったな」
茶碗をグイッと傾け、一気に冷やした飴湯を飲み干しながら、茈瑛は少し安堵したような表情を浮かべた。
冷たい甘味で元気が出たのか、あるいは茈瑛に対する緊張が少し解けてきたからなのか――その日から夕霖の調子は、少しずつ元に戻ってきたのだった。




