第6話:白玉の酒杯(上)
(……疲れが取れない)
後宮の宿舎で目を覚ました栢夕霖は、手櫛で軽く髪を整えた後、てきぱきと身なりを整えた。
先日から始めた内帑での整理仕事はどうにも気力が持っていかれる。
仕事を終えた後は疲れ果てて泥のように眠るのだが、それでも朝になっても身体の重さが抜けない。
「……あ、まずい」
かといって、今日はお仕事できません、は許されない。
働かざるもの食うべからず、商人としては基本も基本――なのだが、今日の夕霖は疲れで少しぼうっとしていたらしい。
いつも懐に入れている、お守りの手鏡を忘れるところだった。
(別に、置いていってもいいけど――勝手に捨てられても困るし)
古ぼけた手鏡は、鏡面がひどく曇って歪んでいた。おかげで顔を見ることもできない。
だが、両親はそれを必ず夕霖に身につけさせた。なんでも、彼女が拾われた時に唯一持っていた代物であるらしい。
「……さて、そろそろ行かないと」
その前に井戸に行って、顔を洗ってさっぱりしてこよう。
共同井戸へ向かいながら、夕霖はぐっと背伸びをした。
● ● ●
「……玉杯ですか」
「あぁ。お前がこの前渡してきた紙があるだろう。あれの中に書かれていた玉杯を調べてほしいと仰せだ」
その日の朝は、内帑へ到着するや否や茈瑛がそんな話をし始めた。
要修繕のものはまとめて茈瑛に紙を渡し、そこから皇帝陛下へ話を通してもらうことになっている。
その中で、陛下が白玉の酒杯に目を止めたのだという。
「それは……壊れていないかどうか、ということでしょうか」
「いや、真贋の鑑定だ。くだんの玉杯は、確か錆が見られるんだったな」
「はい。……こちらへどうぞ」
――と、夕霖は茈瑛を案内した。
通し番号をつけ、破損が確認された宝物は奥に避けてある。
その中から要望があった玉杯を探し出すと、夕霖はじっとそれを見つめた。
「……持ってみてもいいですか?」
「構わない。落とさないように気をつけろよ」
落としたらその時が自分の最期だ。
こくこくと頷いて、白玉の酒杯をそっと持ち上げた。
乳白色の玉杯には蓮花の細工が施され、酒を注ぐと、底に彫られた花が水面へ浮かび上がるように見える。
「この玉杯の由来は――えぇと、五代前の皇后様がお使いだったとか」
「そうらしいな。五十年ほど前の小火の際に盗まれたものを、陛下が買い戻したとか」
「なるほど……」
それは大層由緒正しい由来だが、そこが本当か嘘かはわからない。
質感を確かめるように盃に触れた夕霖は、しばらく目を閉じて考えに耽っていた。
目を閉じると、触れた場所から物の質感がよくわかる。長兄が宝石や珍しい香木などを確かめる時、こうして手触りや香りなどを確かめていた。
「おい、夕霖。どうなんだ? 本物なのか」
「……ちょっと待ってください」
これが兄たちだったらうるさいと一喝できたけれど、相手が茈瑛じゃそうもいかない。
だが、夕霖が短く発した言葉は、温室育ちのお坊ちゃまにはやや棘がありすぎたらしい。
きょとんとした表情を浮かべた茈瑛が、じっと夕霖のことを見つめている。
「あ……も、申し訳ございません! 出過ぎたことを……」
「いや――真剣に鑑定をしているのに、邪魔をして悪かった」
意外にも、茈瑛はすんなりと頭を下げた。
(下働きの女史に頭を下げるなんて、珍しいお方……)
へんなの、と思いながら、夕霖は更に玉杯を持ち上げてみた。
下から覗き込むと、確かに足の装飾に錆が浮いているのが見える。
「……茈瑛様、これって外で見てみてもいいですか? 明るいところで、少し調べたいことがあって」
「あぁ、俺が一緒なら外に持って行っても大丈夫だと思う」
「では、一緒に来てください。見分け方をお教えします」
そう言うと、夕霖は先日用意してもらった布入りの箱に玉杯をしまいこみ、それを持って茈瑛と共に外に出た。
外は晴天。夏ということもあり、日の光は十分すぎるほど降り注いでいる。
「白玉は、触ると少しひんやりしています」
「おぉ……」
箱から取り出した酒杯を、そっと茈瑛に手渡してみた。
彼は受け取った酒杯を掲げ、指先で確かめるように盃の部分へ触れていく。
「確かに、冷たい……あと、見た目より重いな? もっとこう、軽いものだと思っていたが」
「えぇ。玉は同じ大きさの石と比べても重いと言われています」
見た目よりうんと軽い石もあるそうだが、それは玉ではない。
更に、長兄から教えてもらった見極め方もある。それが、日の光にすかしてみるというものだ。
「これを、日にかざしてみてください」
「……こうか?」
言われた通り、茈瑛は玉杯を陽の光に当ててみせた。
すると、その陰には濃淡ができる。
もやもやとした雲のような、あるいは繊維のような模様が走っているのがよくわかった。
「これが玻璃だと、そのまま光を通します。玉だとこうして、繊維状の模様ができる――と、兄が言っていました」
「……なるほど、ではこれは……」
「はい、冷たさ、重さ、それから光に透かしたときの模様……これらから見るに、本物の白玉で間違いはないかと」
そう言って、夕霖はぺこりと頭を下げたのだった。
「しかし――」
頭を下げたまま、夕霖はできるだけ声を潜めて付け加えた。
「一つ、問題がございます」




