第29話:ひとつの恋の話(三)
「あの手鏡は、一体いつから私の手元にあったのか――茈瑛様ならわかりますか?」
「最初からだな。迅雪月が、お前の手にあの鏡を持たせているのを見た。だから――お前があの鏡箱を鑑定した時、ピンと来たんだ」
迅家の紋が入った鏡箱は、当代の流行に近い意匠を施されていた。
そしてあの、二重底の仕掛け。あれを見た時、茈瑛は鏡箱が迅紅遠の作り上げたものだと確信したという。
「夕霖、お前は……あの鏡箱が贈られた者は、乳飲み子を抱えて支度をすると言っていたな」
「……はい」
その乳飲み子が自分だとは思わなかった。
夕霖はふーっと深く息を吐いて、何度か目を瞬かせる。集中して話を聞いていたからか、やけに肩が凝っていた。
「茶を持ってこさせましょう」
そう言って席を立った柳太師が部屋から出ていくと、しばらく部屋は二人きりになった。
なんということはない。内帑でも同じように、二人きりで仕事をしていた――あの頃は、彼が皇帝陛下だなんて思ってもみなかったが。
「あの、茈瑛様」
「なんだ」
「……なんで私のことを、内帑に連れて行ったんですか」
彼の口からその答えを聞きたかった。
父が起こした乱心の贖罪のつもりだったか、あるいは迅家ゆかりのものを返そうと思っていたのか。
はたまた、夕霖の資質を試されていたのか。
「それは――実は、俺が集めた後で、信頼できる鑑定人を呼ぶ予定だった。お前は王都の実家にいるだろう……だから、適度に品を集めたら真贋を鑑定し、お前に渡すつもりだった」
それなのに、夕霖本人が宮勤めをしてしまった。
そこで、茈瑛は慌てて夕霖の保護に打って出た。
「物事に確実なことなどない。お前が下手を打って罰せられたら、品物を返せないからな」
「……そうですか」
下手は打たない――と思いたいが、時々他人の連座で罰せられることもある。
貴族と違って、後宮における夕霖たち平民の命は、吹けば飛ぶほど軽い。
「それで……お前はどうだ」
「どう、とは」
茈瑛はまるで叱られた子どものように夕霖の方をちらりと見る。
無論、夕霖だって言いたいことがまるでないわけではない。
つまり、目の前の男は自分の両親を死に追いやった人間の息子ということだ。
もちろん夕霖から茈瑛になにができるわけではなかったが、一言二言くらい恨み言を言っても罰せられない――かもしれない。
「父母……まぁ、迅紅遠様と迅雪月様が私の生みの親っていうのは、ビックリしましたけど」
夕霖は、立場的には迅家のお姫様ということになる。
迅家の名誉が回復されるのであれば、かつての所領や、散逸した迅家ゆかりの品々を受け継ぐ資格があるのは夕霖ということになる。
だが、夕霖にとっての父母とはあのがめつい父と、野望を諦めていない母だ。
「父がしたことを、どうしても……お前に謝りたかった」
「悪いのは先帝陛下で、茈瑛様じゃありません。むしろ茈瑛様にはお礼を言わないと」
その辺りで、柳太師が戻ってきた。
ふくよかな女官を連れ立っており、彼女がてきぱきとお茶を淹れてくれる。お茶菓子もついてきた。
「茈瑛様がいなければ、私は生きていませんでした。栢の家で過ごすこともできなかったし……それに、給金を三倍にしてくれたことにも恩を感じています」
「……三倍?」
ゆっくりと椅子に腰かけた柳太師が、ちらりと茈瑛の方を見た。
逆に茈瑛は、悪戯が見つかったと言わんばかりに肩を竦めた。
(あ、なるほど)
前に彼が言っていた『口うるさいじいや』はこの人か――悪戯心がもたげてきて、夕霖はニヤッと口角を吊り上げた。
「はい、退職金も三倍出していただけるとのことです」
「ほぅほぅ、それは陛下……ほぅほぅ……」
にっこり笑った柳太師はそれ以上何も言わなかったが、茈瑛はばつが悪そうに何度か咳払いをした。
「と、とにかくだな、夕霖……お前には、あの宝物を受け取る資格がある。既に先帝は亡く、皇太后も没した。……ある程度は俺の一存で、迅家の名誉を回復させることもできる」
族滅まで追い込まれた一族の名誉を回復する――それは、先帝の行いが間違いであったと認める行為だ。
茈瑛が皇帝という立場であっても、それが難しいというのは夕霖でさえ理解できた。
「……ちょっと待ってください。今、計算中なので」
「……なに?」
夕霖は頭の中で算盤を弾き始めた。
眠れない夜や、気分が落ち着かない日はこうしている――物の損得をしっかり考えるようになったのは、それが何より大切なことだと両親や兄たちに教わったからだ。
「うん、うん……やっぱり、ちょっと採算が合わないと思うんです」
「……は?」
そう呆けたような声を出したのは、茈瑛だけではなかった。
彼のすぐそばに座っていた柳太師も、突然『採算』なんて言い出した娘に目を丸くしている。
「だって、その……結構な数ありますよね? 先日の迅華遼の絵だって、あの紫檀の鏡箱だって……ウチの実家の蔵じゃ到底扱いきれませんし」
先祖伝来のものを売りさばくような真似は、いくら夕霖も考えていない。
しかし、そうなると内帑にあるいくつかの品物を収蔵する蔵が必要だ。
さらに、迅家の名誉を回復するとなると、それなりに見栄えというのも必要になってくる。
「例えばですよ? 仮に私が迅姓へ戻り、これらの宝物や家督を継いだといたします」
名門にふさわしい邸宅や庭、衣装まで一気にそろえるとなったら――恐らくそれは、夕霖や栢家の財産だけでは到底賄えない。
「屋敷の維持費、宝物の保管費、使用人の給金、親族や旧臣との付き合い。それに、これほどの財産を持っていると知られれば、盗人や詐欺師も寄ってくるでしょう」
脳内でパチパチと算盤を弾く。
――死んだ生みの親は、こんな娘を見てどう思うだろう。
逞しく生きてくれたと思ってくれればいい。いい家に拾われたと安堵してくれれば、それだけで気持ちが救われる。
「それを管理するために必要な手間と時間とお金を考えますと……私の手には負えません。無理です」
更に、絵になるととんでもないのが一人身内にいる。
迅華遼の絵なんて持っていたら絶対に狙われる――アレを抑えつけるのも多分無理だ。
「なので、こればかりは何卒……茈瑛様のお力で、面倒を見ていただけませんか」
「……だが」
「ただ、もう一つだけ……厚かましい願いを言うのなら」
夕霖はそっと椅子から立ち上がり、両手を胸元で重ねた。軽く膝を折り、唖然とする茈瑛の前で頭を下げる。
「父母の……罪人のまま死んだ私の父母の、墓を作っていただきたいのです」
狭い部屋の中に、その声はやけに響いて聞こえた。




