第28話:ひとつの恋の話(二)
迅雪月は、死ぬ必要などなかったはずだ。
捕らえられ、身分と自由を奪われても、皇帝の寵姫になれば命だけは助かっただろう。
だが、彼女は夫と同じ道を選んだ。生まれたばかりの我が子を託し、決して思惑通りになるまいとその命を散らしたのだ。
「……どうして」
雪のように清らかなひとだったのだろう。
夕霖は顔も知らないその女性の――自分を産んだ母の姿を思い浮かべ、それからゆっくりと息を吐いた。
「どうして、茈瑛様がその場にいたのですか。あなたは……まだ、十かそこらだったのでは」
「そうだ。だが、すでに立太子されていた。父の子は男児では俺だけだったからな。後宮に公主がいるが……」
そこでぷつりと言葉を途切れさせた茈瑛は、右手で自らの額を押さえてしばらく黙り込んでしまった。
そして、たっぷりと時間を置いたのち、再び話し始める。
「父は都を離れられぬ。いや、そもそも王宮から出ることがない――俺は父の名代として遣わされた。俺がいれば、軍の動きに正当性が出る」
夕霖には理解できない状況だったが、柳太師が詳しく説明をしてくれた。
「十歳の皇太子殿下に実戦の指揮をさせることはあり得ぬこと。これが皇帝陛下による勅命の討伐であるということを示すため……当時皇太子であられた陛下も、迅家の本邸へ遣わされたのです」
皇太子が率いる軍に抵抗すれば、これは紛れもなく逆賊である。
だからこそ、迅紅遠は無抵抗で屋敷に火を放った。使用人たちは逃れた者もいたが、多くは当主と運命を共にしたという。
既に軍が動いている以上、生きていれば処刑されるか、それよりひどい目に遭わされるのが目に見えているからだ。
「その中でも、生まれたばかりの我が子までを道連れにはできなかったのだろう。あの日……少し離れた本陣に、血だらけの女性がやってきたんだ」
その悲惨な姿に、側仕えの侍女は卒倒したという。
しかし、茈瑛は迅雪月を知っていた。そして彼女の腕に抱かれた、生まれたばかりの子を託されたのだという。
「彼女にとっては賭けだったかもしれない。だが、俺はどうしても――……どうしても、殺せなかった」
押し付けられるようにして腕に抱いた赤子の、その温かさ。
あるいは、死が眼前に迫っている状況で子を託す母の強さ。
それを、かつての茈瑛は目の当たりにした。
父を狂わせた女とは思えぬほどに力強く、それでいて凄絶な姿だったという。
「決してこの赤子を死なせまいという、気迫があった。武装し帯剣している俺が気圧されるほどに……母とは強いものだと思ったよ」
その子が夕霖であった。
だが、茈瑛はその赤子を連れて王宮へ戻ることはしなかった。
――できなかったのだ。
「迅夫妻が死に、唯一赤子が生き残ったとなれば……父は恐らく、その子を殺すだろう。あるいは後宮で育て、迅雪月の血を継いだ娘を――」
嫌悪感に顔を歪めた茈瑛は、それ以上何も言わなかった。
だが、その意味するところは夕霖も理解している。
心を病み、恋に焼かれた人間がなにをしでかすかはわからない。茈瑛の選択に、夕霖は心から感謝をしたくなった。
「だから、俺は……偶然通りかかった商人に、赤子を託すことにした。数人見送ったが、面倒見の良さそうな男が通ったからな」
不穏な喧噪に鳴き声を上げる赤子を、敢えて橋の下の茂みに隠した。
その声につられて覗き込んだ商人の男は、そこに赤子がいるのを見て腰を抜かしたことだろう。
「最悪の場合は、剣を突き付けて脅すつもりだったが――その商人は気のいい男だったらしい。捨てられた赤子を憐れんで連れていったよ」
「……それって」
「栢児由。お前の親爺殿だ……もっとも、王都に店を構えているのを知ったのは、その少し後のことだったが」
赤子はその後、王都一の大店になった店で何不自由なく成長した。
年の離れた二人の兄に溺愛され、店先で愛嬌を振りまきながら、少しばかり銭の使い方に口うるさい少女になったのだ。
「私のこと見てたって、そういうことだったんですか……」
「あぁ。母上に願い出て、使用人を貸してもらっていた。俺が個人で動かせる人間は、それほど多くないからな……使用人なら店に出入りしても問題はないだろう」
庶民に扮した茈家の使用人が、二月に一度ほどの頻度で夕霖の様子を見ていたらしい。
皇太后である茈氏は理性的な女性だったようで、家族を亡くした少女を見守りたいという息子の願いを叶えてくれた。
――あるいは、夫が手に入れられなかったものの暮らしを見守ることが、彼女なりの復讐でもあったのかもしれない。
「父は、それからひどく塞ぎこんだ。元が真面目な人だったから、自らのしたことに気が付いたのかもしれん」
理性を取り戻した時、先帝は恐らく自らの愚行を呪ったはずだ。
腕のいい職人たちと、それを束ねる優秀な当主――そして、その妻であった美しい人をすべて失い、やがて廃人のようになってしまった。
茈瑛が政を執ることができるようになるまでは、柳太師と皇太后が国を回した。
(なるほど、茈家がこれだけの権力を持つようになったのは、そういうことだったんだ……)
冷静にそう考えようとして、夕霖はちくりと胸が痛んだ。
どうして両親が、あの手鏡を肌身離さず持っているようにと言っていたのか――その意味が、ようやく理解できた。




