第27話:ひとつの恋の話(一)
「先の皇帝陛下は、それは誠実なお方でございました」
「そう、だったんですか」
夕霖は、先の皇帝陛下のことなどよく知らない。
晩年は病がちで、柳太師や皇太后の周囲――つまり茈家の人間が政を動かしていたらしい。
今現在、茈家に絶大な権力があるのはその頃に勢力を増したのが原因だ。
しかし、国政は割と落ち着いている。税金も常識的な高さで、ある程度は自由な商売も認められている。
その治世を引き継いだ現帝の御代もまた、穏やかなものであった。
「茈氏――陛下の御母君、皇太后様との仲も睦まじく……個人的な欲を捨て、国のために政を布く――およそ天子としては理想的な方でございましたよ」
柳太師の言葉は昔を懐かしむようだったが、その表情にはどこか翳りが見えた。
皇太后は二年ほど前に亡くなっている。先帝が身罷った後は宮に籠り、静かに息子の治世を見守っていたらしい。
「しかし、ある時――あの方は恋をしてしまわれた。これまで皇帝として、自分の気持ちをずっと抑えていらしたのだろう」
「……恋?」
「道ならぬ恋と言うのは、たやすく人を狂わせるという。あの方もそうであった……長らく自分の内側に抑えていた、人間の心というものが湧き上がってしまったに違いない」
随分詩的な物言いをする。
清廉潔白な君子が恋に落ちて狂うという話は、割とよく聞く物語だ。
(貴い御方は、自分の心を表に出すことができないんだろうな……)
茈瑛はちょっと別として、天子と呼ばれる方々はそうおいそれと私情で物事を動かすことはできない。
それができぬように雁字搦めにしているのが、律であり官である。
「……その、道ならぬ恋の相手はどなたなんですか」
「――迅雪月。迅紅遠殿の奥方だった……北方から嫁いだ女人で、名のごとく雪のように白い肌をしておったよ」
艶やかな黒髪の美丈夫であった紅遠と並ぶと、本当に一枚の絵画のようだったという。
そして、皇帝はその美しい女人に心を焼かれた。
本当に、焼かれたと表現するのがいいだろう。焼けて、爛れて、ぐちゃぐちゃになった心を抱えたまま、それでも天子は自分を律し続けたという。
「如何な皇帝陛下と言えど、他人の妻を召し上げることはできない――あの方は自らを律し、恋心を封じられた」
彼女が紅遠のものでなければ、強引にでも後宮に召し上げることはできただろう。
理由をつけて紅遠を遠ざけ、その隙に奥方を手に入れることもできたかもしれない。
だが、先帝はそれをよしとしなかった。
(なるほど、それは『理想の皇帝』かもしれない、けど――)
歪な封じ方だと、夕霖は先帝が哀れになった。
だが、それと同時に――妙な寒気というか、恐ろしさのようなものを覚えた。
燃え盛る炎のような心は、長年私心を滅してきた皇帝の善性を容易く焼き尽くしたに違いない。
次兄を見ていても思うが、恋というのは恐ろしいものだ。その言葉の前で、一般的な倫理や常識は通用しない。
(いっそ、先帝陛下が小兄様みたいに……恋心を表に出せる御方ならよかったのに)
それもそれで大変なことになったかもしれないが、似ている美姫の一人や二人用意することはできたかもしれない。
だが、それは彼自身が許さなかった。
歪んだ恋を薪にして政に励んだ先帝だったが、いくら貴人であっても心の造りはただの人と同じだった――やがて、先帝は心を病むことになったという。
「宮廷には、多くの官吏が働いておる。衷心から皇帝陛下にお仕えする者がほとんどだが……中には、よからぬ考えを企むものがいる」
「……それって、もしかして」
――誰かが、皇帝に進言したのだろう。
それは迅家を疎ましく思うどこかの貴族かもしれないし、あるいは心を病んだ皇帝本人を傀儡にしようと企んでいた者かもしれない。
焼けただれた恋心に、その言葉は薬のように染みたのだろう。
「そう――迅紅遠は、皇帝陛下にお納めする絵画に謀反の意を仕込んだと言われた」
「なっ……そんなこと、してないんですよね?」
「無論言いがかりではあるが、陛下がそうと言えば紅遠殿には覆すことができぬ」
先帝は迅家の当主である紅遠を罰し、その妻を連座で没官――罪人の家族として自由の身を奪い、国の所有としたうえで後宮へ召し上げるつもりだった。
その策に、かつて賢帝とまで呼ばれた先帝は乗ってしまった。
無茶な言いがかりで迅家を滅ぼすため、先帝は軍を動かしたという。
「悲惨な戦いだった。何度お諫めしても、先帝陛下の考えは変わらず……国の宝ともいうべき迅家の職人集団は皆殺しにされた……」
当初は、女子どもは生かしておけという命令があったという。
それは賢帝と呼ばれた男の慈悲ではなく、美しい女を生きたまま捕えたいという欲によるものだろう。
ゾッとするものを感じた夕霖は、ごくりと唾を飲んだ。
(人間とは……恋に、そこまで狂うことができるのか)
「……それで、迅雪月様はどうなったんですか」
「――死んだ」
短くそう呟いたのは、痛ましげな表情を浮かべる老爺ではなく、先ほどから表情を変えずに話を聞いていた茈瑛だった。
迅家が滅んだ十八年前、彼はまだ十歳前後だったはずだ。
父の凶行を目にして、彼は一体何を思ったのだろう。
「迅雪月は、夫と運命を共にすることを選んだ。当たり前だ――いくら皇帝などという大層な名を頂いていようが、人の心に枷はつけられない」
父の行いを語るその表情は、暗く沈んでいた。
「……俺に赤子を託して、迅雪月は屋敷に戻っていったんだ。自刃した夫の元へ向かって――燃える屋敷の中へ」
茈瑛の声は重く、夕霖はその言葉にひゅ、と息を飲んだ。




