第25話:五つ葉の銀杏(三)
夕霖は絶句した。
自分が肌身離さず持っていた手鏡が、まさか迅家ゆかりの逸品だったなんて。
(父様も母様も、そんなこと一言だって……)
口の中がからからに乾いて、夕霖は思わず唾を飲んだ。
背中にはびっしりと冷たい汗をかいていて、血の気が引いていくような感覚に襲われる。
「……どうして、茈瑛様がこのことを知っているんですか」
答えはなかった。
茈瑛は何も言わず、ゆっくりと首を横に振る。
「これ、なんなんですか。私はどうして、こんなものを……だって、これって」
自分の立っている場所が、音を立てて崩れ落ちていくようだった。
なぜ自分が、迅家ゆかりの――それも、最後の当主が妻子のために作ったものを持っているのか。
そして、父母はなぜ夕霖にこの鏡を持たせたのだろう。魔除けだと言って持たされたものが、とんでもないものを運んできた。
「……栢夕霖」
「は、い」
「この手鏡の――いや、迅家のことについて、お前に話しておきたいことがある」
名を呼ぶ茈瑛の姿が、自分の知っている「茈家のお坊ちゃま」のそれではないことには気が付いていた。
小刻みに足が震えるのを感じていると、どうやら茈瑛も夕霖が緊張していることに気付いたらしい。ぽりぽりと頬を掻いてから、深く息を吐き出す。
「お前に用がある。ちょっとついて来い」
砕けた様子でそう命じられて、夕霖は二度ほど目を瞬かせた。
「ど、どこにですか……もしかしてまた、藪の中を通らされるんじゃ」
「藪?」
はて、と首をかしげたのは柳太師の方だった。
茈瑛はバツが悪そうな表情を浮かべ、軽く夕霖の額を小突いた。
「いたっ! なにするんですか茈瑛様!」
「いいからついて来い」
有無を言わさず、茈瑛は柳太師を伴って夕霖をある場所へと連れていった。
場所自体は、後宮からあまり離れてはいない――というか、ごく近い場所だった。
しかし、女史である夕霖がそこへ向かうことはできない。
彼らが向かったのは、皇帝陛下が寝起きを行う内廷――臥龍殿と呼ばれる場所である。
(こ、この前の図書庫とは全然違う……!)
護衛の数も後宮とは大違いだ。
冷や汗が脂汗になるんじゃないかというくらい緊張した夕霖だったが、前を歩く二人の男はこの場所によく慣れているようで、道行く官吏や護衛の兵士が深く頭を下げている。
「……茈瑛様」
心細くなった夕霖は、とうとう前を歩く青年の名を呼んだ。
茈瑛。
名門中の名門である茈家のお坊ちゃまで、自分もその権力を惜しげもなく振りかざす雲上人。
だが――何故だか夕霖は、そんな茈瑛の姿がまるで別人のように思えた。
「どうした」
「あの、私……このようなところに足を踏み入れられるような身分では……」
「許可は出している。問題ない」
「……出している? そんな許可を、茈瑛様が出せるんですか」
皇帝の側近で、飛ぶ鳥を落とす勢いの茈家の出身である彼の権力はすさまじいものがある。
欲しいと言ったものは大体すぐに用意してくれるし、煩雑な手続きを彼の言葉一つですっ飛ばすこともできる。
だが――皇帝の寝所があるような場所に一介の女史を出入りさせるような許可までは、出せないはずだ。
「あなたは、何者なんです」
「……なんと答えれば、お前の不安を取り除けるかわからない」
そう言って、茈瑛はぴたりと足を止めた。
すると、すぐに兵士がやってきて目の前の扉を開ける。中は小さな部屋で、椅子が三脚置いてあった。
「中へお入りなさい」
緊張した面持ちの夕霖に、柳太師がそう声をかけてくれる。
軽く頭を下げて部屋の中に入ると、茈瑛はさっさと椅子に腰かけた。
「そこに座れ」
そう命じられたので、夕霖はとりあえず椅子に腰を下ろした。多分、本来ならばここで座ることは許されていない。
ただ――茈瑛が命じたから座ることができるのだ。
背を伸ばして座ったものの、緊張で喉がひどく乾いていた。
軽いめまいを覚えながら椅子に座った夕霖を見て、対面の椅子に腰かけた柳太師が茈瑛に声をかける。
「……陛下、そろそろよろしいのではございませんか。これでは彼女があまりに不憫でございます」
老爺の言葉を聞いた瞬間、夕霖の頭が真っ白になった。
瞬きすら忘れたまま、柳太師を見つめる――今、彼はなんと言った。
「へい、か? ……茈瑛様? えっ?」
掠れた声が出て、それからまた部屋に静寂が戻った。
(やけに、皇帝陛下に対して気安い物言いをするとは思っていた。でも、それは――)
それは、彼が皇帝と同じ茈家の血を受け継いでいるから。
そして、単純にそれだけ宮廷における茈家の力が強いから。そう思っていた。
「すまない、夕霖」
ぐしゃぐしゃに散らばった頭の中に、低い声が響く。
ぽかんとした表情を浮かべる夕霖に、目の前の男――茈瑛と呼ばれていたはずの青年が、薄い唇を動かした。
「茈瑛というのは、俺の……本当の名ではない」
それは、普段王宮から出られない彼が身動きを取るための、仮の名前だという。
本来の、彼の名前は。
「何瑛寿。……それが、俺の本来の名前だ」
何瑛寿。――それは、この国を統べる皇帝の御名だった。




