第24話:五つ葉の銀杏(二)
「大丈夫かね?」
乾いた音を立てて床に落ちた鏡は、身を屈めた柳太師が拾い上げてくれた。
皺だらけの手に、小さな手鏡がきらめく。
「あ――も、申し訳ございません。お手を煩わせてしまい……」
「いやいや、気にせんでおくれ……おや? この鏡、なんだか歪んではおらんかね」
窓から差し込む陽光を、小さな鏡は的確に跳ね返す。
だが、鏡面を覗き込む老爺の顔は不格好に歪んでいた。鏡面そのものも曇っており、ろくに身だしなみを整えることもできない。
「若いお嬢さんが持つには、些か……」
「……はい。昔からずっと歪んでいるみたいで――お守りとして持っているんです」
悪いものを跳ね返すという鏡が歪んでいたら、それもそれで縁起が悪いような気がする。
だが、両親はいつもこの鏡を夕霖に持たせたがった。
「それが――私が拾われた時に、唯一持っていたものらしいんです」
「ほう?」
柳太師は細めた目を見開き、ゆっくりと手首を動かした。手鏡の角度が変わり、歪んだ鏡面に跳ね返された光が壁に反射する。
「おや、これは……もしや透光鏡ではないかね」
「透光鏡――」
聞いたことがある、と夕霖が口を開きかけた瞬間、バンッ! と音を立てて扉が開いた。
「ひぇっ! ……って、茈瑛様!」
「――りゅ、柳太師」
大きな音が聞こえた方に視線を向けると、そこには髪を振り乱した茈瑛が立っていた。
珍しく肩で息をした茈瑛は、長い脚でずかずかと内帑の中へ足を踏み入れ、こちらに近づいてくる。
「な、何故あなたがここにっ……姿が見えないと思ったら……!」
余程急いで来たのだろう。
軽く咳き込みながら、茈瑛は柳太師と、その傍らにいる夕霖へと交互に視線を向けた。
「茈瑛様、どうなさったんです? 今日はいらっしゃらないんじゃ……」
一人、話の見えない夕霖だけが、茈瑛を仰ぎ見て目を丸くする。
一方で、茈瑛はくしゃりと表情を歪めていた。
だが、その視線はやがて壁に反射された光に吸い寄せられる。
「……これは」
「この娘御が持っていた手鏡でございます。これは……どうやら細工が施された、透光鏡のようで」
透光鏡というのは、俗に「魔鏡」とも呼ばれる仕掛けが施された鏡だ。
鏡面にわずかな凹凸があり、光を跳ね返すと文様が浮かび上がる。
作ることができる職人は国内でも限られており、夕霖も実物を見たことは今まで一度もない。
「夕霖、お前がこれを持っていたのか」
「は、はい。昔から……両親に、持っているようにと言われていて」
茈瑛の視線は、一点を見つめたまま逸らされることはない。
それは、柳太師も同じだった。
白い漆喰の壁。そこに映し出されるのは、透光鏡によって結ばれた光の像だ。
そして、それは――五つ葉の銀杏をかたどっている。
「な、なんでこれが……だって、これって」
呆けたような声を出したのは夕霖だった。
五つ葉の銀杏。
それは、今まで何度か目にしたことがある――職人集団を抱える名工・迅家の紋章だ。
それを、どうして自分が持っているのか。
物心ついた時から肌身離さぬようにと、両親に命じられた鏡に、こんな仕掛けがあることも知らなかった。
「……夕霖。先日鑑定した紫檀の鏡箱はどこだ」
「えっ? えーと、こちらにあります」
「すぐに用意をしてくれ」
茈瑛の声は、普段の、育ちの良さを感じさせる柔らかいものではなくなっていた。
硬質で、どこか重厚な――この場で跪きたくなるほどの威厳を携えている。
(なんだか、茈瑛様じゃないみたい……)
命じられた通りに、夕霖は棚の中から先日の鏡箱を探し出した。
二重底の仕掛けが施されたその鏡箱を茈瑛と柳太師の前に差し出すと、太師は感嘆の声を上げた。
「美しい鏡箱ですな」
「……迅家の者が制作した。恐らく、作者は迅紅遠」
(紅遠……? あれ、茈瑛様――いつの間にそこまで調べてたんだろう……)
作者の詳しい名前までは、夕霖もわからなかった。
先日の迅華遼の絵とは違い、落款や印から作者を調べることができなかったのだ。
だが、茈瑛はいつの間にかそこを調べ上げていたらしい。余程の名工だったのか、柳太師もその名を聞いて目を大きく見開いている。
「なんと……紅遠殿の――」
小さく呟いた声は、夕霖の耳には届かなかった。
茈瑛は慣れた手つきで鏡箱を開け、二重底の仕掛けをさっと開く。
先日同様、そこにはぽっかりとなにかを嵌めこむような空間が残っていた。
「夕霖」
「は、はい……」
名を呼ばれるだけで、肌にピリッとした緊張感が走る。
叱られるわけではない。茈瑛は別に怒っているわけではなかったし、表情はとても穏やかだった。
「その手鏡を、こちらへ」
「これですか? ……はい」
命じられるがまま、夕霖は自分の手鏡を空けられた空間の中に当てはめてみた。
すると、手鏡はぴたりとその場所に合致する――最初からそのように収納するのが正解であったように、裏面の色合いも、高さも、すべてが自然に調和している。
「あ……こ、これ――」
「やはりそうだったか」
ふ、と息を吐いた茈瑛は、そのままきつく目を閉じてしまった。
一人、訳が分からないまま鏡箱を見つめる夕霖に、柳太師が優しく声をかける。
「……迅家が没落しておることは、聞いておりますかな」
「はい。……先帝の御代に没落したと、茈瑛様から教えていただきました」
「そう……迅紅遠殿は、その迅家の最後の当主。少府監として、宮中の職人や工房を統べておられたお方でした」
柳太師は、迅紅遠についてよく知っているようだった。
先帝の御代から国を支え続けた老爺は、懐かしむように鏡箱を指でなぞる。
「紅遠殿には、妻子がおりましてな。……そう、ちょうど――十七、八年前のことでした。娘が生まれてからというもの、工房にこもりきりで何かを作っておられましたが」
深く吐き出された息にどのような感情が込められているのかを、夕霖は知らない。
「この鏡箱と、透光鏡を作っておられたのですな」




