第20話:紫檀螺鈿鏡箱(下)
「あ、これって――前に茈瑛様が仰っていた、迅家の紋章では」
「そうだ。……まさか、ここで見られるとは」
目を丸くした二人は、少し前に鑑定した月下銀杏図を思い出していた。
確か、あれも迅家の人間が描いた絵だった――今回はより分かりやすい焼き印があったが、その真偽は明らかではない。
「この紋章って、使えるのは迅家の人だけなんですか?」
「そうだな。基本的には――迅家の人間か、彼らが所有する工房の職人しか使えない。今は工房もなく、迅家の人間はほぼ残っていないから……」
「新しい物なら、贋作の可能性もあるということですね」
だが、夕霖の目から見てその可能性は極めて低い。
職人集団を抱えていた迅家の作品であるなら、これほど精密な作品を作り上げることもできるだろう。
片手で開けることを想定した造りに、所有者のみが見ることができる美しい螺鈿細工――どちらも蓄積された技術や知恵が凝縮されている。
「私は、これは限りなく本物ではないかと思うのですが……」
「やっぱりそう思うか?」
「えぇ。細工の美しさも、鏡箱自体の気品も一級品です。ただ……この部分が、どうしても気になって」
もしここになにかが収められる予定であり、それが欠けているというのなら――それは品物そのものの価値を大きく損なう。
そして、損なわれた品物は皇帝の私物としてはそぐわない。
どれだけこの品が美しく、完璧な造りをしていても、完全な状態でない以上は鏡箱単体の価値を高く見積もることはできなかった。
「……なぁ、夕霖。俺はあまり女人の支度に詳しくはないのだが」
どうしたものか、と頭をひねっていると、不意に茈瑛が声をかけてきた。
彼は一度箱を閉め、それから右手だけで取っ手を掴み鏡箱を再度開けてみせる。
「例えば、男であるのなら……こう、戦いで怪我をして、こちらの腕が使えない状況というのがあると思う」
空いた左手をぶらぶらと動かしながら、茈瑛がそんなことを言いだした。
「だが、女人は剣を持たんだろう。ならば、どうして片手で開けるような構造にしたのか――俺にはそれがどうしてもわからん」
「……茈瑛様だって剣は持たないでしょう」
彼は文官だ。それを示す官服を着ているし、戦場に立つような身分でもない。
そんな彼から「戦いで怪我をする」という言葉が出てきたのも驚きだが、それよりも夕霖は彼が口にした疑問にハッとした。
「……女性は、子を産みます」
「ん? あ、あぁ……そうだな」
「そして、その子を抱いて……抱いたまま、支度をすることがあります」
高位の貴族の女性などは乳母がつきっきりで子どもの面倒を見るだろう。だから、恐らく茈瑛はあまり想像ができていないはずだ。
子を抱いたまま身支度をする母親は、鏡箱を両手で開けるのは難しい。
(そうだ……だから、片手でも開けるように細工がしてあるんだ――ってことは、この鏡箱が贈られたのは……)
「……幼子を抱えた、母親に向けた贈り物だったのかもしれません」
鏡箱を作ったのが迅家の人間だとするなら、子が生まれた、あるいは生まれる直前の妻に送ったものなのかもしれない。
そう考えると、前の月下銀杏図も近しい女性を描いたものだった。
「迅家の方は、自分の家族をとても大切にするんですね。箱を作った側も、恐らくは贈った女性のことをよく見ていた人だと思います」
ぽつりとつぶやいた言葉に、茈瑛は何も言わなかった。
「あ、そうか――それなら、孔雀が箱の中に描かれていた理由もわかります」
孔雀は瑞鳥。
邪なものを退け、幸運をもたらす鳥であるのなら――鏡箱を開いた女性と、その近くにいるであろう子どもに向けた意匠であったのかもしれない。
「この鏡箱を使う人が幸せであるようにと……そう願って作られた品物なのでしょう」
「……そう、か。では、これは……」
「恐らく本物です。ただ、どうしても――この部分が欠けてしまっているので……」
由来は大体想像がついたが、肝心の二重底の中身がない。
「ここの部分があれば完璧なのですが」
残念だ、とため息をついた夕霖は、黒く焼き捺された紋章を指でなぞった。
没落した名工集団の作ともなれば、それなりの価値は出るはずだ。だが、やはり完全ではない。
ぼんやりと空いた部分を眺めていた夕霖は、そこで再び作り手に思いを馳せた。
(妻が使いやすいようにってこれだけの細工をした人なら……子どもにも、何か残したいって思うかも)
「もしかして、ここは……抱えられている子どものためのなにか、なのかも」
「というのは?」
たとえば、玩具入れだとか。母親が身支度をしている間の手慰みに、小さな玩具を入れておく。
――そこまで考えて、夕霖は首を横に振った。それは流石に、空いている空間が大きい。
「大きさは、ちょうど私の手のひらくらい……結構大きいです。だから、今すぐに使う玩具とかではなく、なにかを仕舞っておいたんだと思いますが……」
あるいは、寺院でもらってきた安産祈願の御札とか、ご利益のありそうな宝珠とかだったかもしれない。
そう告げると、茈瑛は眉間に薄く皺を寄せながら頷いた。
「探すのは難しいだろうな。外されて市場に出回っているとしたら、まず見つからん」
「そうですね……なので、その点だけ陛下にお知らせをお願いしてよろしいでしょうか」
真贋で言えばまさしく本物であるのだが、この部分の欠損については皇帝陛下に進言しなければならなかった。
(まぁ、陛下もこんなところが二重底になってるとは思わなかっただろうし……)
むしろ、迅家の紋章を見ずにこの鏡箱を買ったのだ。その審美眼はなかなかと言えるだろう。
「物を見る目がない、と茈瑛様はおっしゃいますが……これを買い求めたのは、なかなか見る目があるかと思います」
「ん……まぁ、結果としてはそうか。わかった、俺からうまく言っておくよ」
この辺りのことは、夕霖の管轄外だ。
茈瑛ならばなんとかできそうなので、とりあえず彼に任せておこう。
ぺこりと頭を下げてその場を辞そうとする夕霖に、茈瑛が声をかけてきた。
「そうだ、夕霖!」
「……はい、なんでしょう」
「今日はせっかくの宮中市を邪魔して悪かったな。……次の休暇には、一度実家に帰れるように手配してやろう」
「――え?」
「今日の詫びだ。これだけのことをしているのだから、陛下も許可を出してくれるはず」
俺にまかせろ、と笑った茈瑛に、夕霖は久々に彼が万能鍵たる由縁を思い出したのだった。




