第16話:お給金の使いどころ
長い渡り廊下を、茈瑛はゆっくりとした足取りで歩いていた。
今日は内帑での仕事はない。口うるさい爺さんに呼び止められ、仕事を終わらせるまで書斎から出るなと厳しく釘を刺されてしまった。
昼の鐘が聞こえたあたりで休憩をとることが許されたが、そこまでは本当に閉じ込められていた。
「もとよりお仕事はすべて終わらせておいでですが――今後のために、少しばかり余裕を作られてはいかがでしょうか」
そう言ってにっこりと書簡の束を差し出してきた白髪の老爺は、明らかに目が笑っていなかった。
茈瑛とて、毎日必要な分の仕事はしっかりと終わらせている。
自分の仕事の他に、内帑で収蔵品の整理を行っている夕霖の監督までしているため、夜はあまり眠れていない。
(今頃は――御庫にいるか)
生欠伸をかみ殺しながら、茈瑛は高い位置にある太陽をそっと仰いだ。
どのみち、今日は一日中ここから出られない。
気晴らしになにか甘い物でも持ってきてもらおうかと考えていると、護衛の武官がすっと頭を下げた。
「お荷物が届いております。いかがいたしますか」
「……全て内帑に運んでおけ。検品は必要ない」
「承知いたしました」
また一つ、内帑に荷物が増えてしまう。
夕霖が眉をひそめてため息をつくところまでを想像した茈瑛は、口元を手で覆ってくつくつと肩を揺らしたのだった。
● ● ●
――四貫五百文。
それは、今の夕霖の給金だった。
都の中でもそこそこにいい給料で、贅沢をしなければ普通に一月を生きていける。蓄財だって、それほど難しくはないだろう。
ただし、それは使い道があればの話。
衣食住が提供され、娯楽が制限された後宮では金の使い道がない。
自らを美しく着飾り、寵愛を得ることが仕事である妃嬪たちならば違うだろうが、少なくとも夕霖には使いどころがなかった。
(……いい額もらったなぁ)
大店のお嬢様ではあるが、夕霖自身そこまで金遣いは荒くない。
あればあるなり、なければないなりに生きていける。これは、若い頃商売で苦労した父がなにかとその大変さを語っていたからだ。
金がないのは寂しい。それだけで頭がいっぱいになって、他のことに気が回らなくなる。
食うに困っている人間が、百年後の国の未来を考えられるだろうか。
だから、国を動かす官吏などというのは十分な俸禄を得るのだ――そう、幼い頃に教えてもらったことがある。
(でも、もったいない)
しかし、なにも使わずに金を貯めこむのも、決していいことではない。
むしろ、金は上手く動かしてこそ活きてくる。甕の中に溜めているだけのへそくりは、減りこそしないがその価値が増えることはない。
(……なにかちょっとでも使えたらいいんだけどなぁ)
手紙を書けば人脈が増える。菓子を買えば気持ちがよくなる。
享楽に耽って素寒貧になるのは愚かだと思っているが、それにしてもただ金を貯めこむだけというのも夕霖の――というか、栢家の考えに反している。
(実家になにか送れるかな……あぁ、でも――この時期は忙しいからなぁ)
夏の大きなお祭りがあるので、この時期は一家総出でせわしなく働いている。
しかも、今年は帳簿をまとめていた夕霖がいない。一応、夕霖の算術の師でもある古参の使用人がいるが、彼だけではなかなか大変だろう。
昼の鐘が鳴り、明佳とは別の棟で掃除をしながら、夕霖は頭の中で算盤を弾いていた。
お祭りになれば、もしかすると後宮にも物売りが来るかもしれない。そうしたら、髪結いの紐とか、給金でも買えそうなものを少し探してみようか。
「うーん……」
いや――それは無駄遣いだ。
後宮にやってきたばかりの夕霖には、これといって欲しいものもない。
仕事の上で必要なものは、茈瑛がすべて用意してくれる。衣服は専用の装束があるし、食事は十分頂いていた。
(難しいなぁ……明佳様とどこかで買い物ができたら嬉しいんだけど――)
いつもなにかと世話になっている明佳と一緒に、屋台などを見て回れたらどれだけ楽しいだろう。
それに、彼女はいつも夕霖が知らないことをあれこれ教えてくれる。
王宮の中の権力図も、官吏である父からそれなりに話をされているようだった。知らない世界のことは、聞いていて純粋に面白い。
(それと、茈瑛様は……)
自分と接してくれるもう一人の人間のことを思い浮かべて、夕霖はぶんぶんと首を横に振った。
(あの方は、いいや)
それでなくとも、世の人々が求めるものをほとんど持っているような人間だ。
手広く商売をやっている栢家でさえ、茈家に出入りするのは難しい。必要なのは勢いでなく、長年の取引実績と家の歴史である。
「うーん……サンザシ飴とか食べたい……」
夏のお祭りのことを考えたら、あの甘酸っぱい味を思い出してじゅわっと唾が出てきた。
すると、棚の向こうで掃除をしていた同僚――あまり顔を合わせたことがない、小柄な女史だった――が、ひょこりと顔を出す。
「サンザシ飴?」
「あ、いやっ……」
「食べたいの? だったら、来週宮中市が開かれるから――覗いてみたら?」
「え? 宮中市?」
そんなものがあるのか、と、夕霖は目を大きく見開いた。
なんでも、後宮では年に二度か三度、妃やその侍女たちを楽しませるための祭りが開かれるという。
今は入内している姫もいないが、後宮を維持するための女官たちは存在している。彼女たちの息抜きとして、祭りは重宝されているらしい。
「わたし達は最後の日しか見て歩けないかなぁ。大体、偉い方々が先に買い物をするから」
「そうなんだ……ありがとうございます、教えていただいて」
人の良さそうな小柄な女史にお礼を言いながら、夕霖の心は浮き足立っていた。
あと数回眠れば、この静かな宮中に市が立つのだ。




