第15話:鴨と葱
「最近、朝夜は冷えるようになってきましたね」
夏とはいえ、この国の気候はそこまで厳しいものではない。
昼間は気温が高くなるが、朝と夜は冷え込みやすい。寒暖差で風邪をひきやすくなるので、この季節は注意が必要だった。
「そうねぇ、薄着をすると夜は寒いし、仕事の場所によっても……」
今日は茈瑛が外せぬ仕事があると言うので、夕霖は内帑ではなく御庫で掃除をしていた。
箒で埃を集めながら、壊れた収蔵品の一部などが混ざってはいないかと目を凝らす。
先輩女史の明佳と共に掃除をしながら、そうしてのんびり会話を交わすのも久々だ。
「奥の方にある棟は、日の光が当たりにくいでしょう。ジメジメして、湿気があるから大変なの」
「あぁ……それは、収蔵されている品が傷んだりしないんですか?」
「一応、換気や陰干しはしているんだけど……」
日当たりがいい場所ならばまだなんとかなりそうだが、日当たりが悪く湿気もあるとなると宝物庫としては致命的だ。
特に、今年は雨が多い。
百姓たちにとっては恵みの雨ではあるのだが、こと貴重な書画を保管している場所となると収蔵品の劣化が心配だ。
「……竹炭を部屋の四隅に置くといい、なんていいますよね」
「でも、建物自体が大きいとねぇ」
どうしたらいいのかしら、とため息をつく明佳に、夕霖はこくこくと頷いた。
確かに、小さな竹炭で部屋全体を除湿するのは難しい。
「それなら、棚ごとに炭を置いて、草木を焼いて出た灰を置くのはどうでしょう。壺にでも入れて棚と棚の間に置いておくだけでも、結構違うと思います」
囲炉裏端の灰などは、あれで水分を吸い取る効果があるという。
「実家の母は、衣類の陰干しの際によく草木灰を使っていました」
書画の陰干しは御庫でも定期的に行っているので、灰で部屋全体を、炭で棚一面の湿気を取るのだ。
「湿気を吸った灰を定期的に取り換える必要があるんですが、灰ならいくらでもありますよね?」
「そうね、炊事場の灰置き場へ行けば分けてもらえるわ」
「タダですか。それなら、御庫の棟全部で除湿の作業をしても大丈夫そうですね」
ついでに言うと、灰を入れておくのは素焼きの壺がいい。
口が狭い物を用意し、上から軽く布をかぶせておけば灰は舞い散らないし、釉薬などを塗っていない壺は空気を通しやすいので、その分中の灰も湿気を吸いやすくなる。
更に、灰を変えれば壺は繰り返し使用できて経済的だ。
「それ、司珍様に私からお願いしてみてもいい?」
「どうぞどうぞ。私は普段ここにいないので――でも、そうか……」
同じように、内帑の方も気を配らねばならない。
夕霖の日々の努力が実を結び、少しずつ内帑に収蔵されているものを片付けたり、種類ごとにまとめておけるようになってきた。
最初はものが溢れてごった返していたが、今なら壺を置く場所くらいはあるはずだ。
(私も茈瑛様にお願いして、壺と灰を用意してもらおう)
同じように説明をしたら、彼は恐らく首を縦に振るはずだ。
(あれでいて、茈瑛様も結構他人を信じやすいというか……やっぱり、育ちがいいからなのかな)
夕霖が彼に嘘をついているわけではない。
だが、彼女が必要だと判断したものを、茈瑛はなんでも揃えてくれた。
もちろん、それは内帑の維持や収蔵物の真贋鑑定に必要なものばかりだが――あんまりにもなんでも話を聞いてくれるので、本当にこのお坊ちゃんは大丈夫なのかと心配になってしまう。
(皇帝陛下がぽいぽいなんでも買っちゃうって言ってたけど、茈瑛様も人のこと言えない気がする……)
ちょっとばかりあくどい手を使って物を売る方法も、もちろん夕霖は心得ている。
心の中にある不安を煽ったり、今買わねば損だと思わせるような売り方は、疑うことを知らない人にとっては非常に効果的だ。
そういう人間をひとくくりにして、カモ、ともいう。
(いや……流石にそこまでではないと思うけど……)
いくら家の伝手で要職についている若君であろうと、皇帝陛下の側にお仕えしている人なのだから。
そこまでちょろいということはない――と思いたい。
むしろ、商人の言葉に乗せられてあれこれ美術品を買いあさる皇帝を止める立場であってほしい。
「どうしたの、夕霖。考えこんじゃって」
「あ、いえ……仕事場にも似たように壺を置いてみようかな、って考えてました」
「あぁ、例の……」
ぼんやりとしていた夕霖を心配そうに見つめていた明佳は、後輩の『仕事場』について思いを馳せ、それから労わるように肩に手を置いた。
「どこでなにをしているのかはわからないけど、いじめられてない? 大丈夫?」
「だ、大丈夫ですよ。茈瑛様は……その、下々の民をいびり倒すような方ではないですから」
貴族の中には、商人を金に汚い下賤の者と思っている人間もいる。
そういう扱いは実家でもまま受けてきたことがあるが、三大貴族に数えられるような家柄の人間は、割と商人にも敬意をもって接してくれることが多かった。
「そう? ならいいけど……」
「たまに無茶なことを言われたりしますが、悪い御方ではないですよ」
「あら、あらら? 夕霖、ずいぶんその若君のことをよく見ているのね」
「毎日のように振り回されていれば、嫌でもわかりますよ……」
はぁ、と息を吐きながら明佳の方を見ると、先輩女史は目をキラキラと輝かせていた。
刺激の少ない職場だし、この手の話題は皆好きだ――が、いざ自分自身がその話題に据えられると、なんとも言えない気持ちになった。
「茈瑛様は、こう……いい意味でも悪い意味でもお坊ちゃんなんです。この前なんて、近道になるからってわざと藪の中を歩かされたし」
「えぇ? 藪って……」
いつまでも引きずっているわけではないが、そういうところも含めて高貴な人間というか――自分ができるのだから相手もできるだろう、と思っている節がある。
「仕事に必要なものは気前よく与えてくださるので、本当に悪い方ではないんでしょうけど……」
はぁ、と小さくため息をついたところで、正午を告げる鐘が鳴った。
「あなたも大変ねぇ」
頑張って、と微笑んだ明佳の表情に隠し切れない好奇心が見えていたのを、夕霖は敢えて指摘しなかった。




