第13話:月下銀杏図(三)
「ここをまっすぐ行くと、門下省の書庫がある」
「……はい」
ぶすっとした表情のまま、夕霖は先を行く茈瑛を恨みがましく睨みつけた。
彼が『近道』と言った道は、薄暗くて虫も出る藪を突っ切っていくとんでもない道だった。
当然、支給された装束で歩く夕霖にとっては非常に進みにくい。だが、彼はその長い脚でどんどん先を行ってしまう。
他人への気遣いが全くない目の前のお坊ちゃんに、夕霖は深くため息をつくことになった。
「だから、悪かったと言っているだろう。いつまでふくれっ面をしているつもりだ」
「……帰りはもっと平坦な道を通ってください。絶対、あの道は二度と通りたくありません」
服も汚れたし頭に葉っぱもついてしまった。
珍しく不機嫌をあらわにする夕霖に、茈瑛は困り果てて頬を掻いた。
「仕方がない、あとで点心を――」
「その手には乗りませんよ」
「う……」
夕霖相手に話をごまかそうとしても無駄である。
「わかった、帰りはちゃんとした道を通る……人が多くて距離が長いから、お前は嫌がると思ったんだ。その、人目につくだろう」
「後宮の人間が外に出ているからですか? ……ちゃんとお仕事で出てるって、茈瑛様が証明してくださるじゃないですか」
手続きをすっ飛ばせるくらい権力があるのだから、他人に説明を求められても彼が上手いことなんとかしてくれるだろう。
茈瑛のことをよく知っているわけではないが、彼が持つ権力に関しては信頼できる。
「そうだな……いや、浅慮だった」
「わかってくださるならいいです」
短くそう告げると、茈瑛はまた小さく息を吐いた。
夕霖は一つのことについてねちねち怒るような性格ではない。
帰り道さえまともなところを通ってくれれば、後は何でもよかった。
(――あ、あれか)
藪を抜けた先に見えた門下省の書庫は、御庫よりもはるかに重厚で、堅牢な造りをしていた。
国内外の希少な書物や歴代皇帝の言行録、更に公的文書などをまとめて保管している――いわば、この国の智の結晶ということになる。
「す、っご……」
普段なら絶対に入ることなどできない場所に足を踏み入れる。
そう思っただけで、夕霖の体はぶるっ……と震えた。
「夕霖、俺の側から離れるなよ。ちょろちょろされると俺が監視役になっている意味がなくなる」
「は、はい! 申し訳ありません」
ここに収められている書物たちはすべて国の宝であり、金銭的価値はもとより学術的価値も計り知れない。
中をぐるりと見て回りたい衝動に駆られた夕霖だったが、茈瑛が制してくれたことでなんとか思いとどまることができた。
できるだけ小さくなり、茈瑛の背後にそっと控える。
すると、彼は図書庫を警備する兵士に声をかけた。
「門下省・符宝郎の茈瑛だ。中に入らせてもらうぞ」
「はっ。……そちらの者は」
「私の侍女である。何か問題でも?」
尊大な態度で言い放った茈瑛に、夕霖は思わずバッと顔を上げた。
(だ、誰が誰の侍女だって……!?)
だが、護衛の兵士は居住まいを正し、すぐに扉を開けてくれた。
「失礼いたしました。では、こちらよりお入りください」
「あぁ。――ついて来い」
茈家の坊ちゃんにふさわしい、ふてぶてしい態度で頷いた茈瑛は、ちらりと夕霖の方を振り向いてから歩き出す。
『侍女』の夕霖はそっと頭を下げ、そのまま彼に従うようにして図書庫の中へと足を踏み入れた。
そして、図書庫の中で働いている官吏を呼び止めた茈瑛は、宮廷画家の印影を写した収蔵簿を持ってくるようにと命じる。
収蔵簿を用意する間、別室で待機してほしいと言われた二人は、空いている小部屋の中に入って一呼吸置いた。
「……よし」
「なにがよし、ですか。私、女史のお仕着せを着てるんですよ!? 茈瑛様の侍女じゃありません」
「あー……まぁ、侍女ということにしておいた方が通りがいいと思ったんだよ。お前も、余計なことを突っ込まれるよりそちらの方が楽だろう」
確かに、所属などをあれこれ聞かれるよりは楽だ。
だが、もっと言い様があっただろう。
「もっとこう……なんかあったでしょう」
「……愛人とでも言えばよかったか」
「茈瑛様!」
高貴な生まれの癖に下世話な冗談でニヤニヤしている茈瑛を、夕霖はこれまでで一番軽蔑した。
それに、彼はただの冗談で言っているだろうが、後宮だとその手の話題はあっという間に広がる。野火が広がるよりもずっと早い。
「他のところでそういうこと仰らないでくださいね。絶対に」
ただでさえ奴婢のごとく働かされているとか攫われたとか言われているのだから、これ以上妙な噂を立てたくなかった。
「外でなんて言えるか。ただでさえ爺さんたちから色々言われているのに……」
「……爺さん?」
「あー、いや。その、じい……そう、じいやだ。口うるさいじいやに叱られてしまうからな」
口うるさいじいやが近くにいてもこうなるのか、と夕霖が呆れていると、やがて収蔵簿が小部屋に持ち込まれた。
茈瑛が自分で立ち会うと告げると、収蔵簿を運んできた官吏も部屋を下がった。
「これが百年ほど前の収蔵簿だ」
「おぉ……で、では、確認させていただきますね」
古ぼけた書物ではあるが、しっかりと管理されていたことで傷みはない。
丁寧な手つきでそれを開いた夕霖は、先ほど見た落款を思い浮かべながら少しずつ書物の中身と比べていった。
真剣に収蔵簿を確かめる夕霖には、さすがに茈瑛もちょっかいを掛けたりしなかった。
狭い部屋の中に重い静寂が流れ、二人がそろって息を詰める。
「っ……」
夕霖が顔を上げて息を吐きだしたのは、収蔵簿の確認を始めて半刻ほど経った頃だった。
「あったか?」
「似たようなものは、こちらに」
真剣に探していたから、目が乾いてゴロゴロする。
ようやく見つけた印影を指さした夕霖は、薄く涙の滲んだ目をそっと拭った。




