(六)小さな精霊たちの話
◆ 小さな精霊たちの話
翌朝、雨は上がった。
神殿の庭は濡れていたが、空は明るい。
石段の欠けた部分に水が溜まっている。
エナはそこを避けるように板を置いていた。
「ここ、踏むと滑ります」
ロアンはその横を通りながら言う。
「俺に言ってます?」
「はい」
「やっぱり」
ミルカが後ろから言う。
「私にも言ってると思う」
エナはうなずいた。
「はい。滑る時は平等です」
「いい言葉みたいに言った」
「足元の真理です」
ロアンは真剣にうなずいた。
「足元の真理は大事だ」
ミルカが小声で言う。
「納得するんだ」
朝の片づけが終わると、ロアンは祈りの間の隅にある古い本棚に気づいた。
棚は古く、少し傾いている。
本の数は多くない。
祈りの手引き。
薬草の覚え書き。
村の祭礼の記録。
古い帳簿。
そして、子ども向けらしい薄い本が数冊。
その中の一冊に、ロアンの目が止まった。
表紙は擦り切れている。
絵はほとんど消えかけていた。
けれど、題名は読めた。
小さな精霊たちの話。
ロアンは本を手に取る。
「これ、読んでもいいですか」
エナが振り向いた。
「昔からある本です。子どもに読んで聞かせるものです」
ミルカも近づく。
「精霊信仰の本?」
エナは少し考える。
「難しい本ではないです。子ども向けです」
「どういう話なんですか」
エナは本を受け取り、表紙を撫でた。
「火の精霊、水の精霊、風の精霊、土の精霊が、少しずつ足りないところを補って世界を作る話です」
ロアンは目を細めた。
「足りないところを補う?」
「はい。火だけでは燃えすぎる。水だけでは流れてしまう。風だけでは散ってしまう。土だけでは動かない。だから、少しずつ」
ミルカが静かに聞いていた。
「この神殿らしい話ですね」
エナは笑った。
「そうかもしれません」
ロアンはもう一度、本の題名を見た。
小さな精霊たちの話。
神託ではない。
聖なる書でもない。
中央神殿の奥に納められた巻物でもない。
子どもに読んで聞かせる、古い物語だった。
けれど、その題名がなぜか気になった。
「読んでもいいですか」
エナはうなずいた。
「もちろん」
ミルカが言う。
「ロアン、ちゃんと座って読んで。立ったまま読むと、たぶん何か落とす」
「本は落とさない」
「昨日、薪を落としかけた」
「薪と本は違う」
「落ちる時は平等です」
エナがにこりと言った。
ロアンは本をしっかり持ち直した。
「足元の真理、広いな」
神殿は、中央から遠かった。
白い石の柱もなければ、大きな鐘もなかった。
神像の横には、木彫りの小さな精霊たちが並んでいた。
水の皿があり、火の灯りがあり、土の小鉢があり、風鈴のような飾りが揺れていた。
中央の神官が見れば、古く、貧しく、雑多だと言ったかもしれない。
けれど、村人はそこへ来た。
怪我をした子どもも、腰を痛めた老人も、雨宿りの旅人も、迷った若者も。
エナは、そこで働いていた。
掃除をし、薬草を干し、湯を沸かし、傷に布を巻き、ときどき普通ではない力で誰かを助けた。
彼女は中央に呼ばれた聖女ではなかった。
寂れた神殿の、見習い神官だった。
だがその日、ロアンとミルカは知った。
中央に呼ばれないからといって、力がないわけではない。
そして、力があるからといって、どこへ行けばよいか分かるわけでもない。
神像の横の古い本棚で、ロアンは一冊の物語を開いた。
小さな精霊たちの話。
それはまだ、ただの子ども向けの物語だった。
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