(三)そっちは今、だめ
◆ 家みたいな神殿
翌朝、神殿の一日は早く始まった。
鐘は小さい。
それでも、澄んだ音が村へ降りていく。
エナは祈りの間を掃いていた。
神像の前を拭く。
木彫りの精霊像の埃を払う。
水の皿を替える。
火の灯りを整える。
土の小鉢の中の乾いた土をほぐす。
風鈴のような飾りを軽く指で弾く。
その一つ一つが、儀式というより、家の手入れに近かった。
ロアンは入口から見ていた。
「本当に家みたいだな」
エナは雑巾を絞りながら言う。
「神様も精霊さんも、埃だらけだと落ち着かないと思うので」
ミルカが興味深そうに精霊像を見る。
「神像の横に精霊像があるんですね」
神官が答えた。
「この土地では昔からそうだ。神も大事だが、森や水や火や土に祈ることも大事にしてきた」
「中央では違うんですか?」
「違うだろうな。中央の方々は、形を整えることを大事にされる」
エナが小さく手を上げた。
「うちは、形が少し丸いです」
ロアンが精霊像を見る。
確かに、木彫りの像は丸っこい。
「形って、そっちの形?」
ミルカは額に手を当てた。
「たぶん違う」
エナは首をかしげる。
「違いましたか」
神官は困ったように笑った。
「まあ、違わない部分もある」
「父さん、今のはどっちですか」
「説明が難しい」
「神学ですか」
「生活だ」
エナは納得したようにうなずいた。
「生活は難しいです」
ロアンも頷く。
「分かります」
ミルカが見る。
「ロアンが言うと、急に重みが軽くなる」
「軽い重みって何?」
「ロアン」
「俺だった」
朝の祈りが終わると、村人たちが少しずつやって来た。
野菜を持ってくる老婆。
薪を置いていく子ども。
乾かした薬草を預ける村人。
腰を痛めた老人。
靴ずれをした旅人。
エナはその合間を縫うように働いた。
掃除。
洗濯。
湯を沸かす。
薬草を干す。
老人の腰に湿布を貼る。
子どもの擦り傷を洗う。
旅人の足に布を巻く。
おっとりした話し方なのに、手は止まらない。
ロアンはそれを見ていた。
「エナさん、ずっと動いてるな」
ミルカは小声で言う。
「見習いっていうより、神殿の半分くらい動かしてる」
「半分?」
「多めに言うと七割」
「それ、だいぶだな」
エナは耳ざとく振り返る。
「七割は言いすぎです」
ミルカが少し慌てる。
「聞こえてたんですか」
「はい。掃除をしていると、余計な話がよく聞こえます」
ロアンは笑う。
「俺たち、余計な話してました?」
「少し」
ミルカがロアンを見る。
「だいたいロアン」
「俺だけ?」
エナは少し考える。
「ミルカさんは、余計そうに見えて大事な話をします」
ミルカは少し照れた。
「そうですか」
「ロアンさんは、大事そうに見えて余計な話をします」
ロアンは胸を押さえた。
「初対面に近いのに、もう見抜かれてる」
「初対面ではないです。昨日、豆の話をしました」
「豆でそんなに分かる?」
「豆の時、人は少し本性が出ます」
ミルカが小声で言う。
「豆、怖い」
ロアンもうなずいた。
「豆は大事だけど怖い」
エナは満足そうに頷いた。
「分かっていただけてよかったです」
◆ そっちは今、だめ
昼前、村の子どもたちが神殿の庭で遊んでいた。
雨上がりで、地面はまだ少し湿っている。
子どもたちは、神殿の隣にある古い井戸の方へ走っていこうとしていた。
その時、エナが急に顔を上げた。
「そっちは今、だめ」
声は大きくなかった。
けれど、不思議とよく通った。
子どもたちは足を止めた。
ロアンも振り返る。
次の瞬間、井戸のそばに積んであった空桶が崩れた。
がらがらと音を立てて、子どもたちが走ろうとしていた場所へ転がる。
子どもたちは目を丸くした。
一人が泣きそうになる。
エナはすぐに駆け寄り、しゃがんだ。
「大丈夫です。びっくりしただけですね」
ロアンは崩れた桶を見た。
「今の、見えてた?」
エナは桶を直しながら首を横に振る。
「見えてません。でも、だめな気がしました」
ミルカが静かに聞く。
「よくあるの?」
エナは少し困った顔をした。
「たまにです」
「たまに?」
「はい。たまに、だめな気がします」
ロアンは首をかしげる。
「いい気がする時もあるんですか」
エナは考えた。
「豆を増やした方がいい気がする時はあります」
ミルカが即座に言う。
「それは予感じゃなくて食欲では」
エナは少し驚いた顔をする。
「そうかもしれません」
ロアンは笑いそうになった。
「ミルカ、今のは鋭い」
「豆の予感は怪しい」
エナは真面目にうなずく。
「今後、豆の予感は慎重に扱います」
「扱うんだ」
「大事なので」
子どもたちは、もう笑い始めていた。
エナは空桶を端へ寄せ、子どもたちに言う。
「井戸の近くで走る時は、桶と石と自分の足に気をつけてください」
一人の子が聞く。
「足も?」
「足はよく裏切ります」
ロアンが小さく言う。
「分かる」
ミルカも小さく言う。
「ロアンの足は特に」
「ここでも俺?」
エナは二人のやり取りに笑いながら、子どもの膝についた泥を拭いた。
ミルカは、そんなエナの様子を見ていた。
見えていたわけではない。
けれど、危険を察した。
魔術とは違う。
気配とも違う。
ロアンは不思議そうにしているだけだったが、ミルカは少し考え込んだ。
エナはそれに気づいたのか、少しだけ目をそらした。
※第20話「寂れた神殿の見習い」は全六回です。
続きます。
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