(一)剣より先に戻る条件
◆ 戻る条件
朝の山は、まだ冷たかった。
国境洞窟の横に、草に半分埋もれた細い道がある。
道と呼ぶには頼りない。
土はところどころ崩れ、石は露出し、低い枝が顔の高さまで伸びている。
荷馬車は通れない。
馬も無理だ。
槍を持った大人たちが並んで歩くこともできない。
だが、身軽な二人なら通れるかもしれない。
ロアンとミルカは、その道の入口で荷を整えていた。
荷物は少ない。
村長の書状。
地図。
水袋。
軽い食料。
薬草。
縄。
合図用の布。
火を使わない小さな灯り。
ミルカは書状を油紙で包み、さらに布で巻いていた。
ロアンは剣の具合を確かめている。
ミルカが言った。
「剣より先に戻る条件」
ロアンは苦笑した。
「覚えてる」
「じゃあ確認」
「試験みたいだな」
「試験より大事」
「はい」
ミルカは指を折る。
「雨」
「戻る」
「沢の増水」
「戻る」
「どちらかが怪我」
「怪我の程度によるけど、基本戻る」
ミルカは目を細めた。
ロアンはすぐに言い直す。
「いや、ちゃんと確認してから決める。動きが鈍る怪我なら戻る」
「よろしい」
「厳しい」
「次。日没までに第一目印へ着けない」
「戻る」
「小鬼が三匹以上で道を塞いでいる」
「避ける。避けられなければ戻る」
「私がだめって言ったら」
「戻る」
ミルカはうなずいた。
「よし」
ロアンは少しだけ胸を張る。
「満点?」
「油断するから八割」
「厳しい」
「命がかかる試験で八割なら、けっこう褒めてる」
「残り二割が怖い」
「だから確認するの」
村長が近づいてきた。
顔には迷いがあった。
若い旅人二人に、村と村をつなぐ書状を託す。
頼まなければならない。
けれど、頼みたくはない。
そんな顔だった。
「本当に頼めるか」
ロアンは書状を受け取った。
「届けます。無理なら戻ります」
村長は静かにうなずいた。
「戻ることも報告だ」
その言葉は、ロアンの中にしっかり残った。
戻ることも報告。
戻ったなら、まだ次を考えられる。
ミルカは地図を畳み、革袋へ入れた。
「では、行きます」
老人が杖をついて前に出る。
薬草道を知る老人だった。
「第一目印は、割れた大岩だ。そこまでに沢の音が大きすぎたら戻れ。岩の先で風が強ければ崖へ出るな」
ロアンは復唱した。
「割れた大岩。沢の音。風」
「そうだ。山は、昨日の道と今日の道が違う」
ミルカがうなずく。
「雨なら戻ります」
「雨の匂いにも気をつけろ」
ロアンは鼻を動かした。
「今は?」
老人は少し笑った。
「今は、お前さんが分かっていない匂いだ」
「難しいな」
ミルカが横から言う。
「分からない匂いは、分からないって記録しておけばいい」
「それ、役に立つ?」
「次に比べられる」
「なるほど」
「だから覚えて」
「今の匂いを?」
「そう」
ロアンはもう一度鼻を動かした。
「冷たい土と、湿った草と、ちょっと馬」
ミルカは少し黙った。
「馬は後ろの荷馬車」
「記録としては正確だろ」
「山の匂いからは外して」
自警団長が、二人を見た。
「洞窟には入るな。お前たちの仕事は、向こう側へ知らせることだ」
ロアンはうなずいた。
「はい」
洞窟の奥では、魔物の声が反響している。
剣を持っていれば、そちらへ向かいたくなる。
だが、いま二人が向かうのは洞窟ではない。
その横の、細く頼りない薬草道だった。
※第19話「向こう側へ知らせる者」は全六回です。
続きます。
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